COE2008/05/01 18:50

グローバルCOEや21世紀COEに関する報道発表が文科省のHPで公開されている。
 
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/20/04/08042512/001.pdf

 私は私費でもいいからとおもって自分の関心あるテーマをやってきた期間が長いので、ビンボーな個人主義が頭蓋骨にしみついている。
 だから、こういう共同研究や潮流にあわせるのは性分にあわないと思っているダメな人なのだが、まあ、そのダメぶりも当面、家族の理解と援助を得ているからなんとかなるのであって、永遠にそういっているわけにはいかないだろう。

 成果(特に公刊物)を出すにはたしかに少なくないお金がいる。

 論文をたくさん書いたり、一つのテーマに向かって多くの人の成果をあつめても、公刊されなければその存在感・影響力は薄くなる可能性が高い。実際、我が身を振り返っても、まず大学生の頃は古本屋の本と図書館の本でそういう研究の存在を知ったのであって、雑誌論文や報告書にたどり着くには少々時間がかかった。場合によっては入手できないこともあった。先行研究を知らぬまま同じような研究をしてしまうとそれ自体の価値がとわれることになりかねない。
 また身銭をけずっているとテーマを広げるのが困難になるのは事実で、そういう意味でこの種の補助金はたしかに重要である。それに多くの院生をかかえている教員ほど、その意義は大きいのだろう。

 人文系分野では史料や論文、本があればなんとか成果らしいものを作れることが多い。だから本ばかり読んでる集団にお金はいらないという人もいるらしいが、実際のところその必要な本すら購入できないほどだったり、研究に必要な本があまり所蔵されてない地方大学の図書館のほうが多いのである。そこにいながら新しい価値を短期間でみつけるには、たしかに補助金や研究費は必要といえる。

 一方、こういう時勢だから、大学や研究機関は成果とつりあわないか成果が期待できない費目を減少させていくのは自然の趨勢である。そうした状況もあって多くの大学や集団、個人がこうした補助金にチャレンジするが、この手で最大規模のCOEに採用されたのは以上のPDFのとおりということである。

 すでにこうした補助金によって多くの成果が公刊されているから、どういう成果が出ているのかをみておくことは、勉強になることも多い。このブログでもそのいくつかを紹介している。また連続して中心的な役割を担っている先生もいる。

 では後進や、新たにこうしたものにチャレンジする集団や人はそうした先に登場した成果や手法をどれくらい観察して(批判的な意味でも)学んでいるのだろうか。謙虚に受け止める人もいれば、あれはこうこうこういう手口だから、またはこういう著名な先生がいれば採用されるはずだなどとあたりをつける人もいると聞く。
 しかし、問題はそんなHOWTOや必勝法ではなく、どれだけ裾野の方まで眼が行き届いているかであろう。小さなやる気や気力、自主努力を無駄にしてしまう障害がどれだけあるか、それを減らすにはどうするのか、手を打っていけば次第に、個人でも集団でも力は自ずと集まる気がする。意外なものを生みだす確率も高まるはずである。そもそも大砲の数や金額の問題なのではない。また大砲を生み出す環境をといわれているのに、名砲を買い集めるのはあべこべだろう。評価主義に思考を毒されすぎると文化遺産を金額で評価するがごとく、本来的な価値を見失ってしまう。

 私は図書館や図書室の充実度・整備度がその大学の研究力の底力を示すものだと思っている。多くの図書が整理され、「誰にでもいつでも」利用できる状況にちかづいていれば、あとは能力とやる気の問題だけで新しい価値が生み出される。資料があるはずなのにみつからない、利用しにくいということほど、気力をくじくものはない。そしてそれを複数人に強いているような環境は壮大な時間と気力を無駄にしている。研究で一番重要なものを捨て続けているのである。しかも殆どの場合、それをすてなければならないのは若い人たちである。

 必要なのはコネでもなければ、巨額な費用でもなければ、旗艦プレイヤーのヘッドハンティングでもない。いろんな「大人の事情」で下っ端の未知数のプレイヤー達の可能性にまで目が配られていないチームが善戦するわけがないのである。
 
 最近、偶然におもしろい本の背表紙をみたり、おもしろい発想をする人に出会う機会が少なくなった。
 むしろ政治家の行動を嘲笑しながら、まったく同じような行動をして、しかも下っ端は下っ端にしか見えなくなってしまった人たちを「見つけて」悲しい思いをするほうが多くなった。
 まだまだ「若い」記録としてそのつぶやきを書いておくことにした。