新収 東方 第316号2007/05/24 00:02

『東方』第316号、東方書店、2007年6月。

 大学生の頃から継続購入しているのは『東方』くらいだと思う。気になったものが数編あった。ここではとりあえず三篇。

<連載>
 高橋智、書物の生涯-続書誌学のすすめ(第十三講・書物の誕生(六))
<書評>
 長谷川清、文化人類学的中国研究の系譜をたどる必読文献(『中国文化人類学リーディングス』の書評)
 高畑勲、みずから作り、教えた日中アニメーションの恩人(『アニメーション日中交流記』の書評)

「書物の生涯」第十三講は室町時代の古写本をあつかっている。毎回見開き二頁だが、書誌学の語彙が身に付いてない私にはとても勉強になる。

 それと蛇足のようでもうしわけないが、扉に広告がでている『現代中国のポピュラーカルチャー』(勉誠出版)はなかなかおもしろそう。

目次はこちら。
http://www.bensey.co.jp/book/1892.html

 勉誠出版サイトにはシェーファー『サマルカンドの金の桃』の訳書刊行の予告がされている。

新収 知識と学問をになう人びと2007/05/15 18:17

横田和彦編『知識と学問をになう人びと』(身分的周縁と近世社会)、吉川弘文館、2007年4月。

儒者、講釈師、神学者、俳諧師、都市文人、本屋など、日本近世の書物にかかわる様々な人々についてあつかう。

拝受 思想表現媒体から捉え直される、人間にとっての「空間」構成の意義についての研究2007/03/29 19:14

『思想表現媒体から捉え直される、人間にとっての「空間」構成の意義についての研究』(平成17~18年度科研費・基盤研究(B)研究成果報告書、代表者:佐藤徹郎)、2007年3月。

佐藤先生からいただいた。ありがとうございました。

「人間にとっての「空間」の意義を、空間がア・プリオリにあるのではなく、人間によって構成される主体的な意義をも持つことを明らかにすることを目指すとともに、思想を表現するさまざまな「媒体」による違いをも意識することがふまえられた」(はしがきより)

佐藤徹郎、無限の空間
城戸淳、カントの空間-身体・開闢・感情-
鈴木光太郎、バークリーの空間哲学を実験する
 -モリヌー問題と倒立網膜像問題
栗原隆、生きられる空間、もしくは世間という体
鈴木佳秀、聖所論から見た空間理解に関する予備的考察
-古代イスラエル宗教思想からみたエルサレム神殿の意義
山内志朗、ケルンに眠るドゥンス・スコトゥス
栗原隆、秋山郷を読む-景観美学への一試論
堀竜一、森鴎外訳『即興詩人』のローマ
栗原隆、拍子とリズムと空間と
番場俊、絵画的平面の破壊-マーレヴィチ論ノート-

新収 芸術の始まる時、尽きる時2007/03/29 18:26

栗原隆編『芸術の始まる時、尽きる時』、東北大学出版会、2007年3月。総459ページ。

栗原・廣部先生からいただいた(広く教員に配られた)。ありがとうございました。

第1部 芸術の始まる時
第2部 芸術の臨界
第3部 芸術の尽きる時

執筆者は岩城見一、神林恒道、栗原隆、廣部俊也、矢萩喜従郎、鈴木正美、番場俊、山内志朗、松本彰、佐藤透、尾崎彰宏、加藤尚武、小田部胤久、野家伸也、森本浩一、城戸淳、伊坂青司、座小田豊、松田純。

「哲学の研究者と美学・美術史の研究者とによって織り成されるなか、文学そして歴史を専門とする研究者がポイントとなる形で構成」(はじめにより)されている。
これら論者の論文が3部構成をそれぞれ満たすようになっている。
 個人的に興味をひいたのは尾崎彰宏「「男」を演じる女たち」、野家伸也「芸術が世界との出会いをもたらす時-現象学的考察」だった。
 ただ全体の構成と、それぞれの論説の深浅のギャップには若干違和感をおぼえた。

新収 五山文学集 江戸漢詩集ほか2007/03/24 01:38

山岸徳平校注『五山文学集 江戸漢詩集(日本古典文学大系)』、岩波書店、1966年。

玉村竹二『日本の禅語録八 五山詩僧』講談社、1978年。

とくに漢詩を趣味とするわけでないが(そもそも作れない)購入。もっぱら解説を読んだ。

読了 歴史探索の手法2007/02/15 21:07

福田アジオ『歴史探索の手法-岩船地蔵を追って』(筑摩書房、2006年5月)

 福田先生は神奈川大所属の著名な民俗学者。かつて新潟大におられた。
 栃木県の岩舟発祥の岩船地蔵が村送りで関東、静岡、山梨、新潟方面に展開していく様子を、各地の地蔵と文献調査から分析したもの。ちなみに岩船地蔵は舟にのっているお姿のことが多い。
 旅行感覚で読むこともできて、なかなか楽しい。そう、実は地蔵も流行モノなのだとおもえば、地蔵をみるのが楽しくなるはず。
 ただ、この「流行仏」は江戸の享保4年からひろまったようだが、その理由は筆者も「明確に解答を出していない」。論文だと物足りないという人もでてくるだろうが、本書は新書なので、その残された大きな謎に読者がおもわずひきこまれてしまうという著者の仕掛けにもみえる。

 個人的に常々おもうことだが、純粋におもしろい、興味があるとおもったことは「本気で」調べてみる価値がある。世の役に立つかどうかなんて気にしなくていい。必ず知りたい人がいるのだから。
 今の誰もが気づかない世界がみえてくれば、「今」を別の視点でもみることができるようになるはずである。それはたぶん生き方への効用であって、「やらなければならないお仕事」とは異なるものだろう。

読了 人間の本性を考える2007/02/13 22:15

スティーブン・ピンカー著、山下篤子訳『人間の本性を考える-心は「空白の石版」か』(上)(中)(下)(日本放送出版協会、2004年9月)。
Steven Pinker “THE BLANK SLATE”,2002.

かつて新聞かどこかの書評を読んで、出版されてまもなくに購入した本。ようやく、(下)をよみおえた。著者は著名な心理学者。
 人は生まれたときには何もかかれていない石版(ブランクスレート)のようなもので、生まれた後に家族や社会によって、その性格や人間性が形成されていくという理解は遺伝学的に誤りであるとする。いいかえれば、人間の「特性はすべて遺伝的である」ということになる。
 ただ、著者ものべているように、だから人生は遺伝で決まっているということでもなければ、生まれて後の人間関係が性格形成に全く影響を与えないという意味でもない。「特性=人生」ではないから。

 歴史の論文を書いていると、しばしばある時代の特徴とはどういうものか、また地域性とはどういうものかを考えることがある。同時に人間のもつ普遍性とはどういうものかを考えさせられることになる。どうして北と南でこんなに似ている出土品が、とか西と東で・・・とか、いろんな局面においてである。
 また、他人が、いまの世の中は、というだけでなく、自分が普段、どのようにものをみているかを考えるためにもこうした本を読んでみるのは有効であろう。

 なお、内容は人文科学の危機的な状況や現代美術に関する考察にもおよんでいる。
 著者がしばしば寄り道をするので、なかなか、読了できずにいたが、私も寄り道しながらようやく最後まで文字をおっていくことができた。
ただ、もう(上)と(中)の内容をほとんど忘れている。ボクの脳みそのデフォルトはどうも空白(ブランク)らしい。

wikipedia

amazon

新収 「気」の思想から見る道教の房中術2007/02/10 03:55

坂出祥伸・梅川純代『「気」の思想から見る道教の房中術』、五曜書房、2003年12月。

 まえがきは実に要領を得ており、あとがきはユニーク。
 副題は「いまに生きる古代中国の性愛長寿法」。これが内容を示している。まえがきにあるとおりで、この分野を欠いては歴史や人間の全体が見えないとおもう。私が買ったのは2006年6月発行の第2刷。中国関係の専門書としてみれば売れているのだと思う。

(2/13追記)数エントリ前の李零氏の著書中の論文への言及もみられる。

新収 山の民 水辺の神々2007/02/08 00:58

大林太良『山の民 水辺の神々-六朝小説にもとづく民族誌』大修館書店、2001年4月。

 南北朝時代を研究していて志怪小説の類をどうにかして歴史の研究に使えないものかと考えるのは私だけではないだろう。
 この本は人類学、民俗学的な視点から六朝小説をよみとこうと試みたものである。少しよんでいくと、思いだされるのは、W.エバーハルト著、白鳥芳郎監訳『古代中国の地方文化』六興出版、1987年である。
 実際、欧州へ留学していた著者も、あとがきでエバーハルトの著書を意識していたことを記している。ただエバーハルトの著書には「時代的な変化がわからない」欠点があったので、「一つの時代を横に切って」「ある時代におけるそれぞれの地域文化」を描き出そうとしたのが本書であるという。

「海の民が全然出てこない」というのははおもしろい指摘に思った。
 非常に淡泊な記述ではあるが、まだまだ奥深いところに「可能性」が埋まっていると感じた。
 この本の出版された月に著書は惜しくも亡くなってしまった。

新収 (新版)歴史のための弁明2007/01/16 03:35

マルク・ブロック著、松村剛訳『歴史のための弁明』(岩波書店、2004年5月第3版)

 かつて旧版の讃井訳を何度も読んだことがあり、「新版」をかうにはおよぶまいと思っていたが、生協で岩波15%引きセール中だったので購入。のっけから私の弁明であるが、まだ、あとがきしかよんでいない。
 マルク・ブロックはいわずとしれたフランスの歴史家で、ドイツ軍占領下でレジスタンス活動に参加して銃殺されたため、本書はリュシアン・フェーブルの手によって出された。旧版・讃井訳はそれにもとづく。

 ところが近年、奇跡的に原稿がでてきて、それを子息が整理したところ、出版されたものは、ずいぶんとリュシアン・フェーブルが手を入れていたことがわかった。誤りもあってブロックの原稿を忠実に反映していなかったので本書はそれを修正、整理したので(新版)と銘打つ。なお、ブロックもフェーブルもアナール学派の大御所。

 まあいずれ読みなおすことはまちがいない。