余欣著『神道人心-唐宋之際敦煌民生宗教社会史研究』中華書局、2006.3 ― 2006/04/24 00:08
2001年だったか、大学の研究班で北京大に行った際、余欣氏に初めてあった。彼は私より若い研究者のようだった。
そのとき、彼が具体的にどのような研究をしてるのか知らなかったが、行神に関する論文をもらい、さらに後日、偽の敦煌文書について書いた論文を読んだ。
その後、彼は復旦大に就職し、学会で会ったS先生を通して、私宛に抜き刷りをくれた。それは薬学史的な論文だった。さてこの人は何を研究しているのだろうと思っていたが、なにか志向性を同じくする人に思えた。
それがこの著書を読んで、その思いは強くなった。
彼の言う「新史学」とは日本でもよくしられた「新しい歴史学」、アナール学派にみられる潮流のことであり、ここ数年、台湾、香港の中国学研究者がこれについて論じているものをいくつか読んだことがあった。私も大学時代、アナール学派や阿部謹也、網野善彦氏の著書を読んで、どうして中国史では彼らのような視角で題材をあつかわないのか不思議におもっていた。ただ実際、史料を見ていってわかったのはそういう題材になる史料はなかなかみつかならないことだった。
つまるところ、社会史なんて言葉にも、「新しい」なんて言葉にもさほど意味があるとはおもわない。ただ、視角として独創性と論証の妥当性を両立させられるかどうかは研究の価値そのものである。そしてその意味で「おもしろい」研究は大抵、それを巧みに成立させるアイディアにあふれていた。
彼の仕事にはそうした「企て」がみられるし、多くの文献を博捜しており、広く敦煌文献も実見しているようである。その意味で、今後こうした研究をすすめるうえで見過ごすことのできない仕事といえるだろう。
なお、こうした分野の先行研究には高国藩、黄正建、宮崎順子、鄭炳林といった仕事がある。余氏はこれらを良く読み込んでいるように思われるが、どれほど凌駕しているのかはこれから読んでみるところである。
5/2 余欣氏からこの著書をいただいた。ありがとうございました。・・2冊になってしまいました。
6/20全然連絡しないでいたら、余欣氏からメールをもらった。了解。書評を書かせて頂きます。
そのとき、彼が具体的にどのような研究をしてるのか知らなかったが、行神に関する論文をもらい、さらに後日、偽の敦煌文書について書いた論文を読んだ。
その後、彼は復旦大に就職し、学会で会ったS先生を通して、私宛に抜き刷りをくれた。それは薬学史的な論文だった。さてこの人は何を研究しているのだろうと思っていたが、なにか志向性を同じくする人に思えた。
それがこの著書を読んで、その思いは強くなった。
彼の言う「新史学」とは日本でもよくしられた「新しい歴史学」、アナール学派にみられる潮流のことであり、ここ数年、台湾、香港の中国学研究者がこれについて論じているものをいくつか読んだことがあった。私も大学時代、アナール学派や阿部謹也、網野善彦氏の著書を読んで、どうして中国史では彼らのような視角で題材をあつかわないのか不思議におもっていた。ただ実際、史料を見ていってわかったのはそういう題材になる史料はなかなかみつかならないことだった。
つまるところ、社会史なんて言葉にも、「新しい」なんて言葉にもさほど意味があるとはおもわない。ただ、視角として独創性と論証の妥当性を両立させられるかどうかは研究の価値そのものである。そしてその意味で「おもしろい」研究は大抵、それを巧みに成立させるアイディアにあふれていた。
彼の仕事にはそうした「企て」がみられるし、多くの文献を博捜しており、広く敦煌文献も実見しているようである。その意味で、今後こうした研究をすすめるうえで見過ごすことのできない仕事といえるだろう。
なお、こうした分野の先行研究には高国藩、黄正建、宮崎順子、鄭炳林といった仕事がある。余氏はこれらを良く読み込んでいるように思われるが、どれほど凌駕しているのかはこれから読んでみるところである。
5/2 余欣氏からこの著書をいただいた。ありがとうございました。・・2冊になってしまいました。
6/20全然連絡しないでいたら、余欣氏からメールをもらった。了解。書評を書かせて頂きます。