あけましておめでとうございます2013/01/08 01:57

 昨年中に論文抜き刷り、著書などをくださった先生方、どうもありがとうございました。

 昨年9月に本ブログを更新してまもなく、久方ぶりにひどく体調を崩してしまいとても更新する余裕がありませんでした。新しい環境に十分対応できていない状態で過酷な出張スケジュールをこなすことになった(3月サンクトペテルブルグ、7月北京、8月上海、9月ベルリン)等の理由もあったと思います。昨年3月以降にいただいた論文抜き刷りや御著書は折を見て拝読しており、おって本ブログで紹介する予定でおります。

 またこんな風にしてスケジュールが崩れてしまったため、現在も締め切り遅れ、または締め切り間近の多くの仕事をかかえた状態になっています。そんな状況でブログが頻繁に更新されるのはおかしいわけで、まずはそれらを優先させていただきたく思います。なんとか、こなせつつあります。
 ちなみに書評の依頼をかなりたくさん(少なくとも自分の能力は超える)いただいております。既に受けたものについては執筆中ですが、依頼はしばらくご勘弁ください。
 
  目処が立ち次第できるだけ早くに本ブログを再開の予定です。

いよいよ大詰め2012/06/24 00:11

余裕のないスケジュールにかなり消耗している感じである。それでも先々までスケジュールは埋まる一方で、新しいネタを考えるにはおよそ適当な状態とはいえないが、まもなくいただいた論文や書籍を紹介する時間がとれるのではないかと楽観している。

そういうわけでまだしばらくブログを再開できる状況にない。

http://www.wangf.net/vbb2/showthread.php?s=00746cf07e580e05614c2eddd99901bb&threadid=26572

ただいま原稿執筆中2012/05/25 04:07

 引っ越し後、ようやく一週間単位のルーチンワークがこなせるようになりつつある。ただ、書籍のほとんどは書架に押し込んだり、書架に入らないものはなんとか歩けるスペースを確保して段ボールを積み上げたというだけで、なにか読もうとするだけで一仕事である。接続すればいいだけのスキャナさえ2,3日前に使えるようになったばかりだ。

 この間、いただいた抜き刷りや雑誌は相当な数になったが、昨年までに引き受けた原稿や仕事がほとんど終わっていない状態なので、いましばらくここの更新の頻度はおとさざるをえない。
 
 最近はTwitterやFacebookもあると国内外の方から提案やお誘いを何度かいただいているが、個人的にネタがじっくり煮込まれた論文や読み物が好みなので、論文より小さい単位でネタや紹介をこまぎれにさらしていくのがもはや性に合わない(そもそもそれに対応していたら研究時間が無くなる)。こうしたツールは多くのコミュニケーションをとおしてイベントを演出したり共感したり情報を共有したりということに重きをおくものであるわけだが、自分の仕事では生の資料そのものを扱っている人や論文をよく練っている人とほんの少しやりとりするだけで十分な示唆がえられるというのが実感である。得がたいのは情報よりも視角や視野だからである。ちなみにひっそりと着々と貯め込んで整理するのが私の仕事の基本なのでEvernoteやストレージ系のクラウドは個人的な情報蓄積ツールとして便利に使っている。
 そういうわけでこれからもよく練られた論文や著書を読んで、自分の無能をうらみつつも、次の仕事に活かしていければと思っている。

 追記:早速FBをつかっている先生などから再三お誘いがあった。すいません。ザッカーバーグなみなさん。仕組みはかなり前から知ってます。けどコミュニケーション方法がお仕着せで気色悪いんです。私は昔から名前もメールアドレスも表に出してますので直接ご連絡ください。連絡が面倒なら無視してくださって結構です。また私のブログは読まないことも可能です。そもそもこういうのは好き好きでいいんじゃないかと思いますが。
 
再追記:お誘いいただいた方々が気を悪くされるかもしれないが、なにが「お仕着せで気色悪い」のかを記しておくことにした。
 Facebookについての概要はwikipediaをご覧ください。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/Facebook
 私はFB(mixiも)を最初に見たときから下のリンク先のブログの記事のように「プライバシーの壁を下げて情報共有を推し進め」それを自社の利益に替えていると思いました。wikipediaに記された由来や実際の個人情報記入欄からもわかるようにアメリカの学園ものの臭いがする人間関係をフォーマットにして世界中を巻き込んだ腕前はたいしたものです。情報共有をスムーズにしたい利用者にとって革新的ツールだというのはそのとおりだとおもいます。
http://blogos.com/article/31272/

 ところで学術論文は読まれないと本来の価値がありません。けど毎年、部外者には信じられないほどの量の論文が生産されているわけで、自分もそれに携わる一人であるわけです。私はそれをある程度系統づけて紹介するのを目的のひとつとしているだけで、このブログには「プライバシーの壁を下げて情報共有を推し進め」る意図が全くありません。FBがそういうことに配慮したツールに変われば利用するかもしれませんが、方向性が真逆ですから難しいでしょう。

 プライバシーに関係することでは、以前から自分と他人が実際にどこで会ったかなど他人の「足跡」情報に関することは特に必要で許諾をいただいた後でも無い限り、ここに記録しないことにしています(逆にFBはこういうことを積極的に公開するための機能を持っています)。論文送るけど載せないでくれという方については記載しないことにしております。なぜ公刊されているものに対して私個人が立場をあきらかにしながら自由に感想を書くのを制限されるのかは理解できないのですが、その人の意思を尊重します。またコメント欄をオフにしているのはこのサイトが基本的に私個人の読書記録で「友人帳」としての情報価値を持たせて、それを他人に提供したり、そうして自分の活動をアピールするつもりが無いからです。FBはそういうブログの仕組みをもうまく取り込んでいるなと思いましたが、私にはいらないのです。そのオープンコミュニケーションな機能が。また私は友人の友人をネットによって知る必要はありませんし、それを知ったとしてなんらかの機会をえるつもりもありません。そういう情報が公開されているFBには大きな違和感を覚えます(職種を替えることでもあればつかうのかもしれません。攻撃的に使ってこそ有効なツールだとおもいます)。

 私が何者でなぜそのような論稿を読んで、コメントしたのか、その立ち位置と連絡先はこのブログの左フレームまたはリンク先にブログ立ち上げ当初から明記してあるとおりで、FBの実名主義もいらないお世話です。そもそもFBの場合、利用者個人の交友関係等の純度と価値の高い情報がFBに提供されることでFBにもたらされる商業利益でなりたっているわけですよね。実名のコミュニケーションだから安心だと利用者に宣伝しつつ、そのことで企業として利益を上げているわけです。

 私であればたとえ便利であっても自己責任で利用するだけであってGoogleの諸サービス同様、FBも人には勧めません。ただGoogleの検索がないと、この読書記録を読み返したり、そういう論文があるということに気づいてもらうのはかなり大変です。その辺りが自分が代価としての情報を支払って(提供して)もいいボーダーです。

文科省のように組織としてまた情報を一般にオープンにするツールとして使うと情報戦略ツールとしてかなり有効だとおもいます。FB参加者の個人情報収集もばっちりできますし。ソフトで「足跡」もとれますから企業には大変都合のいいツールです。
http://www.facebook.com/mextjapan

なお私に関してあの人検索スパイシーとか言うサイトに勝手に情報が集約されていますが、私は作成に関与していませんし、そういう集約を許可したこともありません。みるかぎりでは公開情報をもとにロボットか好事家の手によって情報が整理されている様子です。ソースが公開情報なのですから、とやかく言うこともできないと思っていますし、情報が誤っていてもこちらが実害を被らない限り(実害を受けた場合は法的措置をとりますが)修正を指摘するつもりもありません。

久々にくどい記事になりました。ようやく調子が戻りつつあるようです。まずは依頼原稿に専念します。

異動2012/04/28 18:15

 私事ですが、所属がかわりました。
 以前の所属校(新潟)で用いていたメールアドレスはしばらく後には使用できなくなります。ご了承ください。
 少々、環境の急激な変化についていけておらず、いただいたものへのお礼さえできておりませんが、このブログは続けていくつもりです。

更新遅延2012/04/03 00:31

2月後半あたりからいろいろといただいた抜き刷りなどがあるのだが、記録できないまま1ヶ月が過ぎた。ネット関係ではメールの返信が精一杯である。近日中になんとかリズム調整をしていきたい。

前日まで全く積もっていなかった雪が2012/01/25 21:00

一日で30cm近く積もった。まだ降り続くようだ。
二年前の状況までには至ってはいないが、明日の夜まで降りつづくと・・。

http://iwamoto.asablo.jp/blog/2010/02/05/4861137
上掲のものとは反対側から撮影している。

こういう環境にいると、昔、この場所この環境で本を読んでいた人は何を思っていたのかと考えてしまうのである。

新収 イスラームの「英雄」サラディン-十字軍と戦った男2011/11/19 00:46

佐藤次高(著)『イスラームの「英雄」サラディン-十字軍と戦った男』(講談社学術文庫)講談社、2011年11月。

2011年4月に逝去された佐藤次高先生の著書の文庫版。
 私が(財)東洋文庫研究部に一時おいてもらうことになった際、佐藤先生が研究部長をつとめておられたので研究室に挨拶にうかがった。とはいえ研究分野的にほとんど接点がないこともあって、それからお話しする機会はきわめて少なかった。ところがその数年後、先生が早稲田大学に移られた後に偶然お会いした際に声をかけてくださった。先生には自分の印象はきわめてうすいであろうと思いこんでいたのだが、いろいろよく覚えておられたので、少々、意外ではあった。
 たしかそのときの話題が東洋文庫の移転についてだった。それもまもなく諸事情から移転話は立ち消えとなり、これまでの場所にあらためて立派な建物が建て替えられ、今年オープンに至った。建て替え後の建物には研究会の際に入ったが、ミュージアムオープン後には一度も訪れていない。今度、東洋文庫に行く前には、この文庫本を電車の中で通読してみようかと思っている。

大学院、来年度から修士論文不要に 試験などで審査2011/10/27 00:22

大学院、来年度から修士論文不要に 試験などで審査

http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E0E4E2E6EB8DE0E4E3E2E0E2E3E39180EAE2E2E2

「広い視野と能力を持った人材を育てるのが狙い。従来の修士課程は論文作成のため早い段階から特定の研究室に所属して研究テーマを絞ることが多く、博士課程を終えても産業界から「専門分野には詳しいが応用が利かず、使いにくい」と評価されてきた。」(日本経済新聞 2011/10/26)

 「広い視野と能力」はペーパー試験と面接で評価できるという理解らしい。海外の大学院などに「部分的」にならった制度なのかもしれないが、形だけの試験のようなものになってしまう可能性もあろう。そもそもその新制度を運用するのはそれまで別の方法を主導してきた教員なのだから。

 一方、論文作成指導の過程でしか養えないような個人的探求心や分析力、叙述力といった能力もあるはずだが、それを身につけたものがかりに「専門分野には詳しいが応用が利かず、使いにくい」人材となってしまうのだとして、その原因はやはり修士論文という審査方法にあるといえるのだろうか。論文を指導する側に問題があったり、受け皿となる産業界にこそそうした能力を引き出す応用力を補填する必要はないのだろうか。

 この提案(方針)は 「博士号取得を目指す大学院生が主な対象」だそうだが、博士論文までを免除する気はないようである。それなのに 「博士号取得を目指す大学院生」にとって、ちょうどよいトレーニングである修論を省略するというのは奇妙におもえてくる。
 そう読むと、この提案は結果的に「修士」の資格を広く、容易にとらせるためのもののように思える。ではそれは何のため、誰のためなのだろうか?そしてそれによってどのような未来が予想できるのだろうか。

この辺の関連記事がいろいろと考えさせてくれる。
http://d.hatena.ne.jp/next49/20110201
http://kentapb.blog27.fc2.com/blog-entry-2195.html

中央教育審議会
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/index.htm

※中央教育審議会の提言はしばしば個々の大学内の制度改革案や、概算要求などの際に参照されることがおおい(らしい)。そういう意味で数年後の大学、大学院の姿をうらなう上で注目されるものである。

紹介 越後の大名 展覧会2011/07/14 00:14

 ここ10年にみたうちでずばぬけて格好のいいポスターデザインだと勝手に思ったので、例外的にアップしてみた。

夏季企画展「越後の大名」
 2011年7月30日(土)~9月11日(日)
新潟県立歴史博物館
http://www.nbz.or.jp/jp/index.html

 単に鎧から個人的に連想することで全然関係ない話だが、自分が正史を用いて書いた論文の抜き刷りを日本中世史専攻の友人に渡したところ、六国史のような正史中心で書いた論文に意味があるのかといわれ、愕然とした記憶がある。中国古代史は基本的に正史編纂史料の背景まで読み込み、雑史もまじえて多角的に論証するもので、日本とは識字層や史館(官)制度、残された史料の字数にも著しく差があると応酬したものの、「後世に記録として残すことを意図していない史料を読み込むことではじめて可能になる歴史叙述」が成り立ちうるのは当然で、それが彼が属する世界の「常識」で、自分は異なる「常識」の中にいたわけである。
 そして何十年後かに同じ日本中世史分野の著名な先生にあなたの専門とする時代に貴族でも豪族でも土地の有力者でもなく、過酷な状況から逃げてでも生き延びようとした「名前さえ残らないような人たち」に関する史料はないかといわれ、かんがえさせられることがあった。この先生はそういう人たちの生命力みたいなのをうまく描きだすのだが、私には思うような史料は提供できなかった。たしかに両国間で伝存した史料には歴然とした性格の差がある。「中世」とかいったって800年以上離れているわけだ。ただそういってしまえばそれまでではある。
 ともかく自分のいる世界の「常識」はいつもうたがってみたほうがおもしろいものがみえてくるのだと思っている。

Paul Pelliot's Namecard2011/06/18 11:50

某所で撮影したペリオ(1878-1945)の名刺。肩書きはコレージュ・ド・フランス教授、学士院会員。(当該の肩書きはちょうど100年前の1911年以降のもの。住所はぼかしてみた)。左部分の黒ずみは糊によるもので、ある記録簿に貼り込まれている。記録簿はめくっていくと白堅なる人物の署名があるなど、敦煌文献にゆかりのふかい資料といえる。いずれ紹介する機会があるだろう。
 なお写真掲載は資料所蔵者の許可済み。ご遺族の許可は得ていないが、歿してから60年以上すぎているので問題はないと思うのですが。

追記:更新が異常に遅れている。このブログの情報はまだ3月あたりの情報。少し回転を速くしたいのだが、締め切りが次々にくるため、ブログなんて書いている場合があったら、ということになりそうで更新もままならない。今月末にも締め切りが。