新収 黒山もこもこ、抜けたら荒野 ― 2008/01/28 19:06
水無田気流(著)『黒山もこもこ、抜けたら荒野-デフレ世代の憂鬱と希望』、光文社新書、2007年1月。
最近、1970年代あたりの著者による新書が増えてきた。著者はずばり1970年生まれ、東京の私大出身。詩人で、現在、大学の非常勤。つまり私と同い年で、(著者が有望視されている人であることと現代社会を題材にしてることをのぞけば)似た世界の人らしい。
本のタイトルは奇妙だが、世代の実感をよくあらわしている。たしかに「もこもこ」だったし、今は「荒野」だと思う。
いくつか環境がちがうのは当たり前として、私は著者以上に郊外(というか地方)の生まれだし、著者と同じく「普通」であること、「人と同じ」であることを求められることにウンザリしていた。だから幅広い選択肢を求めて上京した。
大学院に行くのは「普通外なので」奨学金とバイトで5年間をなんとかやりくりした。ぎりぎりであったし、もっと勉強時間が必要だったと反省はするが、自己選択だから、やりがいもあった。現在とりあえず職に就いてはいるが、上はない。しばしば専門分野から勘違いされるのだが、そもそも大学では歴史の教員ですらない。そういう意味で共感できる点は多い。
共感をもったこともあろうが、軽い文体のせいもあって読みやすかった。ざっとみてとくに強いインパクトのある提言や重要な学術情報があるわけではないので、セコい私は立ち読みしようとも思ったが、購入に至った。
随所に鋭い時代観察眼がみえる。
「たとえば、高度成長期的教育の洗礼を受けてきた私たちの世代は、辛うじてこつこつと地道にものを作り上げる美徳を教え込まれてきた。だが、今日ではものを作るよりも他人が作ったものをいかに転がして儲けるかのほうに関心が移っている」
「人間は環境が異なれば、それに応じた精神構造も異なるはずである。だがそれを総合的に判断できずに、主観的に相手を見てしまう人があまりにも多いように思う」
「たとえば、私のように九〇年代に人文・社会科学系の大学院の博士後期課程に進学した者は、当初は博士号を取得することなどあまり称揚されてはいなかった。(中略)院生のひよっ子が書くなんて滅相もない代物という暗黙の了解があったのである。
だがこれが急に変わってしまった。
大学院重点化構想にもとづいた各種の「改革」がなされていくなかで、大学院生の博士号取得率も重視されるようになっていったのである。それを受けて、(中略)公募には「博士号取得」の資格要件が付記されることが当たり前になっていった」
著者がいう「またしても過渡期の世代」というわけである。つまり、就職期にちょうどバブルがはじけ、大学院にすすめば激しい競争、そして「博士号は著書ができるようになってから」といわれて長い将来計画をたてたが、単位取得後に「これからは原則として三年で博士号が取得できるように方向転換する」と宣告されて戸惑った層なのである。博士号はとったが先がないといっている層より、三、四年年長にあたる。しかし、どんなに旧来的業績数があろうと、結果的に博士号を取得できた彼らより評価が低いことも当然あろう。価値観と制度の谷間に落ちた人は少なくあるまい。「改革」、「プロジェクト」、「標準化」。よくあるイベントの旗に翻弄されているだけといえば、そういうことだろう。
現在、40歳未満35歳以上の世代、とくにかつての博士号に神聖なまでの価値を認めてきた私大出身者がそう思っているのはひがみか?とも思ってきたが、本書を読んで、一人でそう思っていたわけではなかったことは確認できた。実際、前後2年違うだけ、または出身が国公立か私大かでこの感覚がまるで違うのである。しかし、そのグラデーションや準備期間の有無は無視して、物差しは強引に統一されてしまった。たぶんいまだにこれに違和感を抱いてる人は何千人かそれとも何百人かいるに違いない。
しかし、著者が言うようにプレイヤーを無視してかってに変えられたルールでも、それがルールになった以上、マイナスからでも出直すしかない。「地道にものを作り上げる美徳」をよしとするなら、それはそれではいあがるしかないのである。まだ論文博士の制度は残っている。
ロストジェネレーションといってよいのかどうかわからないが、いつもこういう崖っぷちと谷間の往復をしている気はしていた。「戦後日本の経済的転換」を個人史にきざんでいる、と著者はいうが、なるほど、うまいことをいうものだ。
だいたい、その変更された「新ルール」がなぜか若手だけに適用されるというのも、フリーター・派遣社員問題にもつうじるものがある。自分より上の世代から「これが新ルールだ、がんばれ」と言われても、その世代は旧来ルールでやってくのだから、事実上その世代が生み出してる構造矛盾まで飲めといわれている気がするのにだ。少なくとも我々がそのわだかまりをこえて、選択を熟考すべき性格のものであって、それは実力主義の未来というにはあまりに異質な矛盾の塊である。
著者は漱石の「私の個人主義」でしめくくる。私も何度もこの本は読んだが、忘れっぽくて内容は覚えてなかった。
漱石は、権力とは「自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧しつける道具」、金力とは「個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極貴重なもの」だといっているという。そして、権力や金力で人をまきこまず、自分の仕事をなすべきだと説いている、と。
研究は最終的に孤独であるからこそ独特なものである。きちんとした個人主義の確立なしにまともな研究もないものだとおもう。
たしかに研究はしかるべき手続きさえふめば形にはなるし、再現性のある証明はつくりうる。それでもどんな著作であっても主観的なのである。個の確立と他者の独自性の距離が保てないところに本当に新しいものはうまれない。とくに人文社会系ではそうではないかと思う。
著者は最後を「敵は日常にあり」で締めくくっている。暗示的で、若干解釈には幅もありそうだが、私には個性を尊重しない均一化した価値観の押しつけが“敵”なのかもしれないと思えた。
最近、1970年代あたりの著者による新書が増えてきた。著者はずばり1970年生まれ、東京の私大出身。詩人で、現在、大学の非常勤。つまり私と同い年で、(著者が有望視されている人であることと現代社会を題材にしてることをのぞけば)似た世界の人らしい。
本のタイトルは奇妙だが、世代の実感をよくあらわしている。たしかに「もこもこ」だったし、今は「荒野」だと思う。
いくつか環境がちがうのは当たり前として、私は著者以上に郊外(というか地方)の生まれだし、著者と同じく「普通」であること、「人と同じ」であることを求められることにウンザリしていた。だから幅広い選択肢を求めて上京した。
大学院に行くのは「普通外なので」奨学金とバイトで5年間をなんとかやりくりした。ぎりぎりであったし、もっと勉強時間が必要だったと反省はするが、自己選択だから、やりがいもあった。現在とりあえず職に就いてはいるが、上はない。しばしば専門分野から勘違いされるのだが、そもそも大学では歴史の教員ですらない。そういう意味で共感できる点は多い。
共感をもったこともあろうが、軽い文体のせいもあって読みやすかった。ざっとみてとくに強いインパクトのある提言や重要な学術情報があるわけではないので、セコい私は立ち読みしようとも思ったが、購入に至った。
随所に鋭い時代観察眼がみえる。
「たとえば、高度成長期的教育の洗礼を受けてきた私たちの世代は、辛うじてこつこつと地道にものを作り上げる美徳を教え込まれてきた。だが、今日ではものを作るよりも他人が作ったものをいかに転がして儲けるかのほうに関心が移っている」
「人間は環境が異なれば、それに応じた精神構造も異なるはずである。だがそれを総合的に判断できずに、主観的に相手を見てしまう人があまりにも多いように思う」
「たとえば、私のように九〇年代に人文・社会科学系の大学院の博士後期課程に進学した者は、当初は博士号を取得することなどあまり称揚されてはいなかった。(中略)院生のひよっ子が書くなんて滅相もない代物という暗黙の了解があったのである。
だがこれが急に変わってしまった。
大学院重点化構想にもとづいた各種の「改革」がなされていくなかで、大学院生の博士号取得率も重視されるようになっていったのである。それを受けて、(中略)公募には「博士号取得」の資格要件が付記されることが当たり前になっていった」
著者がいう「またしても過渡期の世代」というわけである。つまり、就職期にちょうどバブルがはじけ、大学院にすすめば激しい競争、そして「博士号は著書ができるようになってから」といわれて長い将来計画をたてたが、単位取得後に「これからは原則として三年で博士号が取得できるように方向転換する」と宣告されて戸惑った層なのである。博士号はとったが先がないといっている層より、三、四年年長にあたる。しかし、どんなに旧来的業績数があろうと、結果的に博士号を取得できた彼らより評価が低いことも当然あろう。価値観と制度の谷間に落ちた人は少なくあるまい。「改革」、「プロジェクト」、「標準化」。よくあるイベントの旗に翻弄されているだけといえば、そういうことだろう。
現在、40歳未満35歳以上の世代、とくにかつての博士号に神聖なまでの価値を認めてきた私大出身者がそう思っているのはひがみか?とも思ってきたが、本書を読んで、一人でそう思っていたわけではなかったことは確認できた。実際、前後2年違うだけ、または出身が国公立か私大かでこの感覚がまるで違うのである。しかし、そのグラデーションや準備期間の有無は無視して、物差しは強引に統一されてしまった。たぶんいまだにこれに違和感を抱いてる人は何千人かそれとも何百人かいるに違いない。
しかし、著者が言うようにプレイヤーを無視してかってに変えられたルールでも、それがルールになった以上、マイナスからでも出直すしかない。「地道にものを作り上げる美徳」をよしとするなら、それはそれではいあがるしかないのである。まだ論文博士の制度は残っている。
ロストジェネレーションといってよいのかどうかわからないが、いつもこういう崖っぷちと谷間の往復をしている気はしていた。「戦後日本の経済的転換」を個人史にきざんでいる、と著者はいうが、なるほど、うまいことをいうものだ。
だいたい、その変更された「新ルール」がなぜか若手だけに適用されるというのも、フリーター・派遣社員問題にもつうじるものがある。自分より上の世代から「これが新ルールだ、がんばれ」と言われても、その世代は旧来ルールでやってくのだから、事実上その世代が生み出してる構造矛盾まで飲めといわれている気がするのにだ。少なくとも我々がそのわだかまりをこえて、選択を熟考すべき性格のものであって、それは実力主義の未来というにはあまりに異質な矛盾の塊である。
著者は漱石の「私の個人主義」でしめくくる。私も何度もこの本は読んだが、忘れっぽくて内容は覚えてなかった。
漱石は、権力とは「自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧しつける道具」、金力とは「個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極貴重なもの」だといっているという。そして、権力や金力で人をまきこまず、自分の仕事をなすべきだと説いている、と。
研究は最終的に孤独であるからこそ独特なものである。きちんとした個人主義の確立なしにまともな研究もないものだとおもう。
たしかに研究はしかるべき手続きさえふめば形にはなるし、再現性のある証明はつくりうる。それでもどんな著作であっても主観的なのである。個の確立と他者の独自性の距離が保てないところに本当に新しいものはうまれない。とくに人文社会系ではそうではないかと思う。
著者は最後を「敵は日常にあり」で締めくくっている。暗示的で、若干解釈には幅もありそうだが、私には個性を尊重しない均一化した価値観の押しつけが“敵”なのかもしれないと思えた。