新収 敦煌漢文吐蕃史料輯校 他2007/12/16 17:20

楊富学・李吉和(編)『敦煌漢文吐蕃史料輯校』甘粛人民出版社、1999年。
栄新江『英国図書館蔵敦煌漢文非仏教文献残巻目録』、新文豊出版公司、1994年。
 
 前者。収録されるのは主に仏教典籍だが、願文など吐蕃期と特定できる漢文史料の釈文も含む。巻末に写経題記が収録されている。
 後者。Gilesの目録を補完するS.6981~13624の目録。この部分は他の目録にも掲載がない。10年以上すぎた今となっては何カ所も補訂すべき点があるようだが、ようやく入手。いや、前に入手しているのかもしれないが、手元にみつからない・・・・。
 
 師走というだけあって忙しい。筆が進まないというより書くこと、調べることがありすぎ。ブログに書いておこうと思う本はたくさん山積みになっていくのだが、読んでる暇がない。・・・

 未来のことは書かないことにしているブログなのだが、今週末は参加してる科研の報告会。東京や大阪でも同分野の報告会、研究会が開かれる模様である。この分野が盛んなようにみえるが・・・。今年は昨年にも比して研究会が多いことは確かである。あるべき姿に向かっていると信じたい。
 たぶんこれは「成果主義」の時代だからで、前向きに競争が奨励されるようになってきているからではあろう。ただ実際、構造的には本当の意味で競争にはなってない気がする。まあ、それでも前よりは悪くはないのかもしれない。

 また研究が完全に仕事化してしまうと、そこで作られた論文自体にもおもしろさが感じられなくなる。研究費をもらっているなら、仕事としての自覚はあるべきだが、時間が細切れになればなるほど内容より要領が優先されるからである。要領で書かれた論文はそれとわかる。まあ、それはそれで「しかたがない」のだろう。
 人が見て新しいと思う価値は、少なくとも自分がある思いこみから脱した時にうまれる。ましてや他者からみて、こうやってああすればこうなる、という「定跡」で書いても新しい価値が生み出されることはない。もちろん扱う材料が新しければ、研究も新しくみえるわけだが、大抵は発想の新しさとは違い、情報の新しさに依存した「定跡」的なところでオチをつけることが多い。しかし、「定跡」の向こうにある説得的な「構図」がみいだせるか、それが一番肝心な気がしている。
 そう思いつつ、自分の仕事をみると、どこかで諦めてる気がする。前途多難だとおもうわけである。