新収 中国古代書簡集 ― 2006/11/17 00:00
佐藤武敏『中国古代書簡集』、講談社学術文庫、2006年11月。
先秦から後漢の書簡の書き下しおよび訳と解説。
原文はのっていないが出典が明記されており、訳や解説も平易でわかりやすい。筆者が書簡に関心を持ったのは、出土資料『戦国縦横家書』を読んでいくにつれ、戦国期、書簡が重要な通信手段であるとあらためて認識したからであるという。それで、中国古代の郵便制度の概要も書いてある。
斜め読みしながら、こういうのを精読したいとおもった。そう思うのは私の漢文力がおちているからであろうか、それともシンプルさのなかにこそ深みがあると気付きはじめたからか。時間におわれているためかもしれない。
先秦から後漢の書簡の書き下しおよび訳と解説。
原文はのっていないが出典が明記されており、訳や解説も平易でわかりやすい。筆者が書簡に関心を持ったのは、出土資料『戦国縦横家書』を読んでいくにつれ、戦国期、書簡が重要な通信手段であるとあらためて認識したからであるという。それで、中国古代の郵便制度の概要も書いてある。
斜め読みしながら、こういうのを精読したいとおもった。そう思うのは私の漢文力がおちているからであろうか、それともシンプルさのなかにこそ深みがあると気付きはじめたからか。時間におわれているためかもしれない。
新収 文物 ― 2006/11/17 00:40
『文物』2006年10月
山西大同沙嶺北魏壁画墓発掘簡報
山西大同七里村北魏墓群発掘簡報
山西大同迎賓大道北魏墓群
趙瑞民・劉俊喜 大同沙嶺北魏壁画墓出土漆皮文字考
張志忠 大同七里村北魏楊衆慶墓磚銘析
山西省は開発ブームなのだろう。目を引く発掘報告が続々。
目を引いたのは以上。ほとんど丸ごと一冊北魏特集である。
追記:沙嶺北魏壁画墓は2005年の十大考古学新発見のひとつに選ばれたらしい。
11/21
山西大同沙嶺北魏壁画墓は伏羲女媧図、四神が壁面に描かれている。
山西大同迎賓大道北魏墓群の磚の「年」の字体は五胡期の吐魯番文書にみられるものに似ている。
山西大同沙嶺北魏壁画墓発掘簡報
山西大同七里村北魏墓群発掘簡報
山西大同迎賓大道北魏墓群
趙瑞民・劉俊喜 大同沙嶺北魏壁画墓出土漆皮文字考
張志忠 大同七里村北魏楊衆慶墓磚銘析
山西省は開発ブームなのだろう。目を引く発掘報告が続々。
目を引いたのは以上。ほとんど丸ごと一冊北魏特集である。
追記:沙嶺北魏壁画墓は2005年の十大考古学新発見のひとつに選ばれたらしい。
11/21
山西大同沙嶺北魏壁画墓は伏羲女媧図、四神が壁面に描かれている。
山西大同迎賓大道北魏墓群の磚の「年」の字体は五胡期の吐魯番文書にみられるものに似ている。
マスクを発明したのは中国人? ― 2006/11/17 00:50
『中華医史雑誌』第36巻第4期、2006年10月
今号はとくに関心を引く論文がない。
ちょっとしたコラムに目くじらをたてることもないが、「口罩的来話」というコラムにマスクを発明したのは中国人とある。ただそこで根拠として引用しているのは元朝の史料(マルコ・ポーロ)で、マスクで献上物の食物に息やつばがかからないようにしているというもの。
ソレは短絡だろう。5,6世紀のソグド人の壁画に描かれているゾロアスター教徒はマスクをしていて報告でも口罩と書いてたはず。たぶん神聖なる火に息を吹きかけないようにだろう。しかもそういう図が描かれた文物は最近、中国でいくつも発見されて、CCTVなどにも露出してるはず。もっと古い史料だってあるかもしれない。それも「マスク」をどう定義するかによるわけだが。
考古と中国医学の知識が交わる機会はすくないでしょうし、「起源論」自体、ほとんどの場合、未成熟な議論になりがち。古代の話は現代の国家や国民の評価にはつながりません。
と、これもまたつまらぬ感想ではある。
今号はとくに関心を引く論文がない。
ちょっとしたコラムに目くじらをたてることもないが、「口罩的来話」というコラムにマスクを発明したのは中国人とある。ただそこで根拠として引用しているのは元朝の史料(マルコ・ポーロ)で、マスクで献上物の食物に息やつばがかからないようにしているというもの。
ソレは短絡だろう。5,6世紀のソグド人の壁画に描かれているゾロアスター教徒はマスクをしていて報告でも口罩と書いてたはず。たぶん神聖なる火に息を吹きかけないようにだろう。しかもそういう図が描かれた文物は最近、中国でいくつも発見されて、CCTVなどにも露出してるはず。もっと古い史料だってあるかもしれない。それも「マスク」をどう定義するかによるわけだが。
考古と中国医学の知識が交わる機会はすくないでしょうし、「起源論」自体、ほとんどの場合、未成熟な議論になりがち。古代の話は現代の国家や国民の評価にはつながりません。
と、これもまたつまらぬ感想ではある。
法蔵敦煌文献 ― 2006/11/20 00:00
敦煌文献は発見されてまもなく世界各地に散らばった。 最初に国外に持ち出したのはイギリスのスタインであった。しかし次に敦煌をおとずれたフランスのペリオはスタインと違い、中国語ができた。その彼が選んできたのがフランス蔵敦煌文献である。中国人にしてみれば文化財を海外に云々という問題はあろうが、それはひとまずおいといて、これらが中国古代の文化や東アジア世界の歴史を知る上で重要な資料の宝庫であることは疑いないことである。
この白黒のマイクロフィルムが日本では駒込の東洋文庫にあることは良く知られている。また京都大学の人文研にそのコピーがあることも同様である。
さらに今年ようやく完結した『法蔵敦煌西域文献』(上海古籍出版社)によって、わりと身近に見ることができるようになった。1冊4~6万円くらいで35冊もある巨冊だから、大きな大学図書館等にいかなければ見ることができないが、おおいに便利になった。
そして今年、調査で訪れた際、このデジタル化が完結し、研究者にカラー印刷が提供できるようになったことを知った。しかし、reproduction 部門は図書館の一部であるにもかかわらず、こういう状況を理解しておらず、白黒しかないです、と手強かった。一悶着して、さらに数ヶ月待って、その一部を入手できた。決して強要してきたわけでなく、所定の手続きを所員の一部は認知していなかったというところであろう。
おそらく数年後にはロンドンのIDPに提供されているなり、フランス国立図書館のWeb上から申し込めるようになるのだとおもう。敦煌学がデジタル革命の大きな渦の中にいることにあらためて気づかされた。
この白黒のマイクロフィルムが日本では駒込の東洋文庫にあることは良く知られている。また京都大学の人文研にそのコピーがあることも同様である。
さらに今年ようやく完結した『法蔵敦煌西域文献』(上海古籍出版社)によって、わりと身近に見ることができるようになった。1冊4~6万円くらいで35冊もある巨冊だから、大きな大学図書館等にいかなければ見ることができないが、おおいに便利になった。
そして今年、調査で訪れた際、このデジタル化が完結し、研究者にカラー印刷が提供できるようになったことを知った。しかし、reproduction 部門は図書館の一部であるにもかかわらず、こういう状況を理解しておらず、白黒しかないです、と手強かった。一悶着して、さらに数ヶ月待って、その一部を入手できた。決して強要してきたわけでなく、所定の手続きを所員の一部は認知していなかったというところであろう。
おそらく数年後にはロンドンのIDPに提供されているなり、フランス国立図書館のWeb上から申し込めるようになるのだとおもう。敦煌学がデジタル革命の大きな渦の中にいることにあらためて気づかされた。
拝受 長沙呉簡中の名籍について ― 2006/11/20 23:09
關尾史郎、長沙呉簡中の名籍について-史料群としての長沙呉簡・試論(2)、『唐代史研究』、第9号、2006年7月
關尾史郎、長沙呉簡中の名籍について-内訳簡の問題を中心にして、『人文科学研究』、2006年11月
関尾先生からいただく。失礼を承知でコメントしてみる。三国から唐という変遷だけでなく、木簡から紙という媒体の変遷をふまえつつ、「名籍」の問題に取り組める適任者というのは世界ひろしといえども、そう多くはいない。そういう意味で、先生「らしい」研究であり、「名籍」研究史の2本として読むとわかりやすいように思われる。ただ、この2本を読むと、それが緻密であるだけに、筆者が仮想する長沙呉簡像のどこにこれが位置するのかがなかなかつかめない。私の知識が不足しているのであろうが、なにか隔靴掻痒の感がある。
まだ呉簡はほんの一部しか公表されていないと聞く。この2論稿はソレを分類する試論であるから、このような感想になってしまうのかもしれない。全貌が公開されるのが楽しみである。
關尾史郎、長沙呉簡中の名籍について-内訳簡の問題を中心にして、『人文科学研究』、2006年11月
関尾先生からいただく。失礼を承知でコメントしてみる。三国から唐という変遷だけでなく、木簡から紙という媒体の変遷をふまえつつ、「名籍」の問題に取り組める適任者というのは世界ひろしといえども、そう多くはいない。そういう意味で、先生「らしい」研究であり、「名籍」研究史の2本として読むとわかりやすいように思われる。ただ、この2本を読むと、それが緻密であるだけに、筆者が仮想する長沙呉簡像のどこにこれが位置するのかがなかなかつかめない。私の知識が不足しているのであろうが、なにか隔靴掻痒の感がある。
まだ呉簡はほんの一部しか公表されていないと聞く。この2論稿はソレを分類する試論であるから、このような感想になってしまうのかもしれない。全貌が公開されるのが楽しみである。
天聖令 ― 2006/11/27 00:00
今、唐代史・宋代史の研究者の間で注目されているのが、天聖令である。
天聖令は北宋の天聖7年(1029)に制定・頒布された。唐令を参考に挙げ、そして新条文をあげるという体例をとっていたとされる。もはや完全に散佚したとおもわれていたが、近年、天一閣所蔵の「官品令」がその明代鈔本の一部であると証明された。しかも、従来知られていない唐令の条文が多数含まれていることがわかった。
戴建国「天一閣蔵明抄本〈官品令〉考」『歴史研究』1999年第3期
この論文にその経緯が書かれているようであるが、私はまだ未見である。
上の文は下に挙げた黄先生の一文や東方書店の書籍案内、知り合いの先生方の話を仄聞して要約したものである。
日本の律令は唐の律令と深い関係にある。そのため日本史の研究者の間でもおおいに注目を集めつつあり、すでにこれをテーマに開講されている先生方もおおいようだ。
今もそうだが、ここ20年ちかく中国古代法制史で注目を集めてきたのは秦漢期だったようにおもう。次々と出土資料から法制史料が発見され、公開されてきたからである。おもえば私が大学院で読むことになった最初の史料も秦律だった。一方、唐代の律令については1990年頃にはすでにがっちり研究がでそろっており、新参者にはなかなか参入しにくい分野になっていた。しかし、この史料によって唐の律令に関する周辺はまた賑やかになるだろう。
まだ戴氏の論文は見てないが、今月、録文集がでたとのことである。録文集が出る前ながら、すでに日中の研究者はいくつも論文を書いている。法制史を専攻せずとも、その時代の法律を知ることは歴史研究には不可欠である。
医疾令もふくまれているようなので私にとってもこれは見逃せない。ネットで知る限りでは医疾令は35条で唐代の史料中にないものが17条あるという。
黄正建「天一閣蔵『天聖令(附唐令)的発見と整理』」(中文)
http://www.chinanbsk.com/index.php?categoryid=38&p51_articleid=1096
程錦「唐代女医選取之制考釈」(中文)
http://theory.people.com.cn/BIG5/49157/49163/5023500.html
『天一閣蔵明鈔本天聖令校証』中華書局、2006.11
12/6
上掲の書籍を入手。またこの文を少々改文した。
天聖令は北宋の天聖7年(1029)に制定・頒布された。唐令を参考に挙げ、そして新条文をあげるという体例をとっていたとされる。もはや完全に散佚したとおもわれていたが、近年、天一閣所蔵の「官品令」がその明代鈔本の一部であると証明された。しかも、従来知られていない唐令の条文が多数含まれていることがわかった。
戴建国「天一閣蔵明抄本〈官品令〉考」『歴史研究』1999年第3期
この論文にその経緯が書かれているようであるが、私はまだ未見である。
上の文は下に挙げた黄先生の一文や東方書店の書籍案内、知り合いの先生方の話を仄聞して要約したものである。
日本の律令は唐の律令と深い関係にある。そのため日本史の研究者の間でもおおいに注目を集めつつあり、すでにこれをテーマに開講されている先生方もおおいようだ。
今もそうだが、ここ20年ちかく中国古代法制史で注目を集めてきたのは秦漢期だったようにおもう。次々と出土資料から法制史料が発見され、公開されてきたからである。おもえば私が大学院で読むことになった最初の史料も秦律だった。一方、唐代の律令については1990年頃にはすでにがっちり研究がでそろっており、新参者にはなかなか参入しにくい分野になっていた。しかし、この史料によって唐の律令に関する周辺はまた賑やかになるだろう。
まだ戴氏の論文は見てないが、今月、録文集がでたとのことである。録文集が出る前ながら、すでに日中の研究者はいくつも論文を書いている。法制史を専攻せずとも、その時代の法律を知ることは歴史研究には不可欠である。
医疾令もふくまれているようなので私にとってもこれは見逃せない。ネットで知る限りでは医疾令は35条で唐代の史料中にないものが17条あるという。
黄正建「天一閣蔵『天聖令(附唐令)的発見と整理』」(中文)
http://www.chinanbsk.com/index.php?categoryid=38&p51_articleid=1096
程錦「唐代女医選取之制考釈」(中文)
http://theory.people.com.cn/BIG5/49157/49163/5023500.html
『天一閣蔵明鈔本天聖令校証』中華書局、2006.11
12/6
上掲の書籍を入手。またこの文を少々改文した。
拝受 長沙走馬楼呉簡よりみる孫呉政権の穀物搬出システム ― 2006/11/28 00:00
谷口建速「長沙走馬楼呉簡よりみる孫呉政権の穀物搬出システム」、『中国出土資料研究』第10号,2006年3月。
谷口さんからいただいた。この論文の名前はさきにもあげた。
長沙呉簡は発掘されたもののうち発表されているのは1/10ほどである。谷口論文は現時点において知ることのできる簡牘を様式や機能で整理するという点ではさきにあげた関尾論文と共通し、私は共通の不安感をおぼえた。
ただじわじわと文書行政のありかたにちかよっていく筆者の慎重な姿勢もうかがえ、やはり長沙呉簡の全貌を見たくなった。
谷口さんからいただいた。この論文の名前はさきにもあげた。
長沙呉簡は発掘されたもののうち発表されているのは1/10ほどである。谷口論文は現時点において知ることのできる簡牘を様式や機能で整理するという点ではさきにあげた関尾論文と共通し、私は共通の不安感をおぼえた。
ただじわじわと文書行政のありかたにちかよっていく筆者の慎重な姿勢もうかがえ、やはり長沙呉簡の全貌を見たくなった。
新収 敦煌研究文集 ― 2006/11/28 00:34
敦煌研究院篇『敦煌研究文集』(甘粛民族出版社、2000年9月)
敦煌研究院所蔵の敦煌文献についての研究が時代順に排列されている。ほとんどの研究は敦煌学輯刊などからの再録である。一点一点、それほど深い考証ではないが、それぞれの文書に関しては基礎的な考察である。ただ扉の写真はカラーとは言わないけど、せめて鮮明なモノにしてほしいとおもう。
私はこのなかの何点を2004年に実見している。しかし、実際の史料を目の前にして、うなってしまうばかりで、どこからどうせめていいものかわからなかったことを思い出す。今ならどうにかなるかと言われればソレも自信はないのだが、わからないことの手応えが楽しくなってきた感じはある。
敦煌研究院所蔵の敦煌文献についての研究が時代順に排列されている。ほとんどの研究は敦煌学輯刊などからの再録である。一点一点、それほど深い考証ではないが、それぞれの文書に関しては基礎的な考察である。ただ扉の写真はカラーとは言わないけど、せめて鮮明なモノにしてほしいとおもう。
私はこのなかの何点を2004年に実見している。しかし、実際の史料を目の前にして、うなってしまうばかりで、どこからどうせめていいものかわからなかったことを思い出す。今ならどうにかなるかと言われればソレも自信はないのだが、わからないことの手応えが楽しくなってきた感じはある。
新収 陰陽師と貴族社会 ― 2006/11/28 01:00
繁田信一『陰陽師と貴族社会』(吉川弘文館、2004年2月)
筆者の博士論文がもとになっているらしい。指導は民俗学で有名な福田アジオ先生とのこと。平安期における陰陽師そのものについての研究である。
精読していないので、細かなことは書かないが、医術については医者が主、呪者を従とみる新村説に対極の構えをとるなど、随処に、医学史の研究者にはおっと思わされる点がでてくる。また、私だけかも知れないが、900年代の日本と敦煌はなにかシンクロしているようにさえ感じられる。
日本史の事例として、またひとつの考え方として良く読みたい本だと思った。
筆者の博士論文がもとになっているらしい。指導は民俗学で有名な福田アジオ先生とのこと。平安期における陰陽師そのものについての研究である。
精読していないので、細かなことは書かないが、医術については医者が主、呪者を従とみる新村説に対極の構えをとるなど、随処に、医学史の研究者にはおっと思わされる点がでてくる。また、私だけかも知れないが、900年代の日本と敦煌はなにかシンクロしているようにさえ感じられる。
日本史の事例として、またひとつの考え方として良く読みたい本だと思った。