新収 敦煌学知識庫2007/12/12 19:46

郝春文(主編)『敦煌学知識庫-国際学術研討会論文集』、上海古籍出版社、2006年。

 2005年11月に上海で開催された敦煌学知識庫国際学術研討会の論文33篇が載る。Dunhuang Knowledge Base という構想があるらしい。
 日本から次の2本が掲載されている。前者はXML、後者にはN-gramがでてくる。

高田時雄・安岡孝一、共建敦煌学知識庫時需要遵守的幾点建議
石井公成、敦煌発現之地論宗諸文献与電脳自動異本処理

本書の目次がこちらにある。
http://www.frelax.com/scdb/mulu/4/DHXZ179914c1.html

ちなみに論文のデータベースとしては台湾の敦煌学研究論著目録資料庫がすでに有名だし、資料画像などもふくめた総合的なデータベースとしてはロンドンのIDPが有名である。さてDunhuang Knowledge Baseはどこに向かうのか。

敦煌学研究論著目録資料庫(台湾)
 http://ccs.ncl.edu.tw/topic_3.html
関連リンク集には砂岡先生のページがある
Dunhuang Manuscript Collections link(砂岡和子家頁)
 http://www.f.waseda.jp/ksunaoka/dunhuang.link.htm

本書中の一篇、陳爽「海内外敦煌学研究網絡資源簡介」と本書付録のリンク集には「新潟大学敦煌研討班」が載っている。

(Notice:Web Site Moved)←ここだけ英語にしても意味はあるまい。
「新潟大学敦煌研討班(http://h0402.human.niigata-u.ac.jp/)」のページはサーバの老朽化に伴い、移動しました。現在、コンテンツの整理中です。とりあえず次のリンク先をご覧ください。
http://www.human.niigata-u.ac.jp/~ssekio/

新収 敦煌漢文吐蕃史料輯校 他2007/12/16 17:20

楊富学・李吉和(編)『敦煌漢文吐蕃史料輯校』甘粛人民出版社、1999年。
栄新江『英国図書館蔵敦煌漢文非仏教文献残巻目録』、新文豊出版公司、1994年。
 
 前者。収録されるのは主に仏教典籍だが、願文など吐蕃期と特定できる漢文史料の釈文も含む。巻末に写経題記が収録されている。
 後者。Gilesの目録を補完するS.6981~13624の目録。この部分は他の目録にも掲載がない。10年以上すぎた今となっては何カ所も補訂すべき点があるようだが、ようやく入手。いや、前に入手しているのかもしれないが、手元にみつからない・・・・。
 
 師走というだけあって忙しい。筆が進まないというより書くこと、調べることがありすぎ。ブログに書いておこうと思う本はたくさん山積みになっていくのだが、読んでる暇がない。・・・

 未来のことは書かないことにしているブログなのだが、今週末は参加してる科研の報告会。東京や大阪でも同分野の報告会、研究会が開かれる模様である。この分野が盛んなようにみえるが・・・。今年は昨年にも比して研究会が多いことは確かである。あるべき姿に向かっていると信じたい。
 たぶんこれは「成果主義」の時代だからで、前向きに競争が奨励されるようになってきているからではあろう。ただ実際、構造的には本当の意味で競争にはなってない気がする。まあ、それでも前よりは悪くはないのかもしれない。

 また研究が完全に仕事化してしまうと、そこで作られた論文自体にもおもしろさが感じられなくなる。研究費をもらっているなら、仕事としての自覚はあるべきだが、時間が細切れになればなるほど内容より要領が優先されるからである。要領で書かれた論文はそれとわかる。まあ、それはそれで「しかたがない」のだろう。
 人が見て新しいと思う価値は、少なくとも自分がある思いこみから脱した時にうまれる。ましてや他者からみて、こうやってああすればこうなる、という「定跡」で書いても新しい価値が生み出されることはない。もちろん扱う材料が新しければ、研究も新しくみえるわけだが、大抵は発想の新しさとは違い、情報の新しさに依存した「定跡」的なところでオチをつけることが多い。しかし、「定跡」の向こうにある説得的な「構図」がみいだせるか、それが一番肝心な気がしている。
 そう思いつつ、自分の仕事をみると、どこかで諦めてる気がする。前途多難だとおもうわけである。

新収 中国とインドの諸情報22007/12/17 17:32

家島彦一(訳注)『中国とインドの諸情報2-第二の書』(東洋文庫766)、平凡社、2007年。

全2巻のうちの2巻目。パリ国立図書館所蔵のアラビア語写本2281番の中に収録されるアブー・ザイード・アルハサンによる『中国とインドの諸情報についての第2の書』の訳注書。

「片時も放さず爪楊枝をくわえている人たち」など興味をひく記述もふんだんにでてくる。こういうものが日本語訳で読めるというのはすごいことだ。

1巻目はこちら。
http://iwamoto.asablo.jp/blog/2007/09/19/1808339

拝受 Geo Special2007/12/17 17:34

“GEO Special -Die Seidenstrasse”Nr.6,Gruner + Jahr AG,2007.12.

ポーランド・ドイツの調査から帰国した関尾先生からいただく。ありがとうございました。
 GEO Special は『ナショナル・ジオグラフィック』に類する雑誌のようである。ドイツ語。この2007年12月/2008年1月号はシルクロード特集と銘打って、現代の中国内陸部から中央アジアの写真が満載。一部に石窟壁画やグリュンウェーデルやスタインの写真、そして他の探検隊もふくめた成果が紹介されている(読んでません)。
 所載の西域文献の写真はカラーではあるが小さい。仏典2点。一方は地獄図で有名な十王経(英蔵の方かな)。もう一方はキャプションによると絵入りの金剛般若波羅蜜多経らしい(初期の印刷資料として知られるOr.8210/P.2。12/20追記)。壁画の写真はどれも鮮明だが、構図が微妙に・・・。ウイグル王女らしい壁画の写真は大きく鮮明でみやすい。

GEO Special -Die Seidenstraße写真特集(雑誌より多い)
http://www.geo.de/GEO/fotografie/fotowettbewerbe/53846.html?maction=home

本誌には展示品らしい兵馬俑の写真があるが、まさか下の記事のものか。一瞬、段ボール・・と連想するだろうが、それは失礼な話で、ドイツ人業者による偽物である。「偽」はひろく人間の問題だということである(複製発覚で兵馬俑展中止 ドイツ-Yahooニュース 2007.12.15)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071215-00000075-san-int

こんな事件もあったし、ともかく人気はあるのだろう。
(兵馬俑坑内にドイツ人学生乱入 被害はなし 西安-人民日報 2006.9.18)
http://www.people.ne.jp/2006/09/18/jp20060918_63156.html

新収 文物 総第618期2007/12/19 18:34

文物編輯委員会『文物』総第618期、2007年11月。

洛陽博物館、洛陽北魏楊機墓出土文物
王素、吐魯番新出闞氏王国『論語鄭氏注』写本補説
張子英、磁県出土北斉趙熾墓誌

 楊機は北魏後期の人で、洛陽永寧寺で高歓に殺されている。『魏書』に短いながら伝がある。墓誌も出土しており、釈文が載る。また夫人の梁氏の墓誌拓片もある。副葬品の俑は数が多いうえに、写真がカラーのせいか、非常に綺麗。俑の顔のしつらえなどかなり様式化されている感じがある。
 王素論文は新出吐魯番文献の一つである『論語鄭氏注』写本を用いて、北涼や闞氏高昌時期の学術と南朝と北朝との関係に言及する。この吐魯番写本のカラー写真は巻末に載っている。
 北斉趙熾墓誌は天統3年(567)に65歳没とある。正史に伝はないが、墓誌から領民正都督や六州都督などに任じられたことがわかる。
北朝史を研究されている方なら買って損のない内容である。

拝受 中世考古学文献研究会会報2007/12/19 19:09

『中世考古学文献研究会会報』第8号、2007年11月。

矢田俊文、地震被害と摂津天王寺西浦・遠江中部低地
堀健彦、地震津波災害と中世安濃津(要旨)
伊藤裕偉、中世の災害とその克服-伊勢を事例に-
向井裕知、加賀の低地と中世遺跡
水澤幸一、中世越後の水害と低地遺跡(要旨)

編者の矢田先生からいただいた。ありがとうございました。
東海大地震ともなると前三者のフィールドは関係してくることになるのだろう。
 矢田論文が後半に取りあげているのは磐田市から牧ノ原市あたりまでの一帯、1707年の宝永地震の史料を用いている。 東海道新幹線に乗っていると緑と住宅地がひろがり、のんびり平凡に見える場所である。しかし、東海大地震の震源地の有力候補らしい。しかも近くに原発があるのは有名。そういえば見に行った(社会見学かな)ことがある。

新収 敦煌類書2007/12/19 21:53

王三慶(著)『敦煌類書』上下、麗文文化事業股份公司、1993年。

この手では有名なものではないかと思うが、ようやく入手。たしか大学院のゼミで一部テキストに使った。上巻(研究・録文・校箋)、下巻(索引・図版)となっており、わりと網羅的に敦煌文献の類書がひろわれている。

新収 生物と無生物の間2007/12/23 18:23

福岡伸一(著)『生物と無生物の間』(講談社現代新書)、講談社、2007年。

 毎日忙殺されている。頭がぼーっとしてくる。しかしほんとに死んでは意味がないので息抜きをすることにした。よく寝て、頭をリフレッシュして、読むことにしたのがこの本だった。

 この本はずいぶんと売れているらしい。家族の又聞きによると、野口英世の部分がおもしろいということだった。そうなのか。

 学生の頃、ワトソンの『二重らせん』の翻訳を読んだ。内容はほとんど覚えてなかったが、DNA発見までのスリリングな話なのに、かなり人間くさい内容だったことは覚えていた。そういう類かなとぼんやり思った。
 ただ売れている本は大概ありきたりのことを書いているから、と立ち読みですませようとおもいつつ、ちょうど安売りセール展開中の生協に行った。
 実のところ専門的な内容らしい。しかも科学史の本としても読めそうである。また著者が狂牛病に関しても注目すべき発言をしていることを遅まきながら知った。iPS細胞報道以降、若干影が薄くなったES細胞についてもふれているようだ。購入してみた。

 野口の部分は新書の導入としてインパクトがある。1000円札にも使われているその彼の業績は今やほとんど意味を持たないということは、著者の現在の研究からみれば、もはやどうでもいいことだが、導入として見事な「つかみ」になっている。
 まあ、たいてい権威というのは後の者がそれをなにかに利用しているから、維持されるわけだ。そもそも人が人である以上、しかるべき貢献者が必ず評価されるなんてことはいつもおこりうることではない。
 何が価値あるものか思いこみを排して判断できる人は思った以上に少ない。すでに誰かが評価したイメージが多くの人の評価対象になっているのが現実で、しかも「同調」や「共感」でその「善悪」を判断するのだ。全くおかしなことだが、たぶんこういう例は枚挙に暇がない。

 ワトソン、クリックも登場する。その影にいた「ロージィ」の話になると、もはや科学裏話を読んでいる気分である。前に読んだ『二重らせん』をひっぱりだしてみると、その貢献にしては「ロージィ」はたしかにひどい書かれようである。おもしろく再読できそうである。

 ただこうした読みやすい部分は核心ではなく、筆者の現在の研究状況を説明するまでの研究前史に位置している。核心に迫るほど結構、専門用語がおおくて難解なのだが、それまでの研究史のわかりやすさと巧みな比喩のお蔭もあって、なんとか読了できた。そういう意味でたしかに見事な本である。

>「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは
>1年も会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ
>替わっていて、お変わりありまくりなのである。

 こんな調子である。ちなみに人体が止まらない流れのなかにあるというのは東洋医学の発想にも通じる。生物を動的平衡性でとらえるというのは気の流体モデルに近い。だから東洋医学は先端的ってことには直結しないとおもうが、比喩として人体をどのように理解するかということは、あらゆる解釈に影響を及ぼす重要なことに思えた。

 また様々な「大学(特にアメリカ)」や「研究者」「研究資金」像をみせてくれる記述も多く、おもしろい。ネットで書評の類を検索するとそこに結構、関心や共感があつまっているようであった。

 まあともかく、研究がすすむということはたえず、挫折や失敗をくりかえしながら、であって、権威や思いこみを守ろうとすれば腐臭がすることになりかねない。極端な話、人体と同じで、どれだけその人の知識の代謝が行われているかが新しいものを生み出す力になるのだろう。
 「チャンスは準備された心に降り立つ」。これは資料の現物を見たときによく思うことに同じである。

*****************************************
 このブログは個人メモなのでコメントの必要がないとおもってましたが読む人もいるようなので一言。

 ここにあげる本は9割以上、私費購入か個人的ないただき物です。公費購入の場合、大体は図書館登録しますし、勤務先にないだけで珍しくもないものがほとんどです。研究費は出張費と大量の複写費ですぐなくなってしまいます。

 私の職務はちょうどこの本に出てくるラボ・テクニシャンのような感じですが、そこそこ忙しいのでブログに書き込むのも当然、勤務時間外です。また自分の論文を作るためのコンピュータ本体は必ず私費購入します。給料のほとんどが大量の本とコンピュータで消えていくことになります。

 今、普通っぽく(爆)生活できるのは僥倖ですが、同世代が「普通」という、妻子を養うなんて無理でしょうし、ローンで居場所を確保するなんて夢のまた夢です。まあ、そういう運命を自分で選択したのだと思ってますのでただただがんばるしかありません。

 ともかく本やコンピュータを自前で買っておくというのは、私の一部にしておく必要があるからで、どこでも研究の持続を可能にする手段で財産です。問題は場所ですね。

新収 Studien zur sogdischen Kultur an der Seidenstrasse2007/12/24 18:56

Grigori L Semenov(Autor),Studien zur sogdischen Kultur an der Seidenstrasse,Harrassowitz ,1996.

ドイツ語。邦題は「シルクロード上のソグド文化の研究」 あたりか。目次と図版を見た限り、相当におもしろそうな本である。

「米澤藏書」からみた江戸期における藩校蔵書の形成2007/12/25 17:37

岩本篤志、「米澤藏書」からみた江戸期における藩校蔵書の形成―国会図書館蔵旧興譲館本を中心に、『汲古』第52号、2007年12月。

・・・・ところで『国立国会図書館蔵蔵書印譜』は「米澤藏書」印を紹介し、「(元禄一二年の)目録中に、この印を持つ当館の蔵書七点が含まれている」としている 。そこで後述の交付書目をてがかりに調べると、さらに多くの「米澤藏書」印記がある典籍を特定するにいたった。・・・・

 少しタイトルが冗長だったかもしれない。また少し内容とずれているというご指摘をいただいた。「米沢藩校の蔵書形成について」あたりがよかったのかもしれない?よく考えて言葉を入れたつもりだったのだが、この辺、まだまだである。
 直近の調査で聞いた予期せぬ情報によれば、実は修正箇所(特に数値)がある。数値的には大きいが、いまのところ拙稿の論に影響はないとはおもっている。改めて論じることにしたい。なんにせよ、今、印刷されたモノは1年前に書きはじめ半年前には大体書けてたものです。念のため。