拝受 写本時代知識社会史研究2008/02/18 02:34

余欣、写本時代知識社会史研究-以出土文献所見『漢書』之伝播與影響為例、『唐研究』第13巻、2007年。

余さんからいただいた。ありがとうございました。
内容的には敦煌文献の『漢書』を中心に写本と情報の伝播を考察したもの。
 なお実際読んでみると、その手法は中国史研究としてオーソドキシーにもみえるが、実はその視角にしかけがあるようだ。

 「知識社会史」については、ピーター・バーク(著)『知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか』(新曜社、2004年)で知ることができる。なおこの本は新潟大学の井山弘幸、城戸淳先生の翻訳で知られる。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4788509105.html

余さんの仕事はある視角と実証とをむすびつけようとしている。伝統的なやり方にしばられない中国史研究がこれからどう展開していくのか非常に楽しみにおもえた。

 ところで、こういう図書や知識流通の研究は、アナール学派ではフランスの青本(livre bleu)研究が有名だし、日本では江戸時代の漢籍、黄表紙、往来ものの流通研究がぬきんでており、非常に参考になる。もちろん、場所や時代が違うものを同じには扱えないが、異なる社会の構造とそのありかたを意識することで、自分の研究対象はよくみえるようにおもう。

 ただ最近、日本では新しい視点や仮説と実証とをうまく両立させた研究書をみることは減りつつある。いや、たぶん読書量が足りないせいだと思うが、一般的に独自の分析や解釈をさける傾向がある気がする。その逆に「欧米」の研究を紹介しているだけのようなものも伝統的に存在する。
 しかし、どんな研究でも数年後に新発見があったりして、実証したはずの一部がひっくり返ることはある。
 だからこそ、肝心なのは個の研究者として「どう見たか、どう読んだか」が緻密な論証とともに提起できていることだろう。

 知識の社会史という観点で学問をとらえると、古代史でも中世史研究でも現代に活かせる豊富な題材をもっていることが再認識できる。しかし、日本では、かつて舶来の理論にのって大きな挫折を味わって以降、理論化や仮説は放棄され、手堅くみえる細分化へどんどんむかった。その結果、日本では『知識の社会史』みたいなモノの見方を提言できる歴史研究者は少なくなってしまった(もちろんまだまだその手の論者がたくさんいるのだが)。

 自分自身が市場経済の社会にいながら、その中でなにも提言できない、おもしろさをつたえる「商品化」ができないなら、古代史や中世史の存在する場所が奪われていくのはやむをえないことである。実際、雑誌論文や報告書によって仲間内ではその将来的可能性の余地が担保されるが、その市場価値はかぎりなくゼロであり、社会的には支払い猶予のモラトリアム申請をだしているのにちかい。

 研究はこうあるべきだという内輪話に内輪以上の価値はない。実際にそれがどう社会性を帯びるかまでが問題で、実はそのプロセスの方が大変な苦労をともなう。そしてこの文章もまたその内輪話そのものである。

 こんな風にみていくと気づくように、知識の社会史というテーマは研究対象になりうると同時に、研究者自身をうつす鏡にもつながる可能性がある。このような巧みな両義性をもったテーマを設定できるところが人文学のおもしろさで、それは他の分野では不可能なのだが、テーマ設定のおもしろさ、現在性に価値を見いだせる研究は少ない。結果として社会的には実用の学にも劣る扱いをうけることになる。

 あなたの研究が現代の我々に何かメッセージを発しているの?ときかれて、あなたは勉強をしていないから我々の地道な努力はわからない、我々は伝統的にこういう緻密な仕事をやってきたのだと答えたのでは会話を拒否していることになろう。努力している姿なんて価値はない。努力して売り物に結びつくかどうかである。そして当然、商品価値が少ない、商品が少ない分野が衰退していくのは当然の帰趨である。