拝受 麹氏高昌国の地方支配について ― 2008/02/14 17:15
本間寛之、麹氏高昌国の地方支配について-文書より見た一試論、『史滴』第29号、2007年12月。
本間さんからいただいた。ありがとうございました。少しタイトル(特に副題)が茫漠としているのではとおもいました。
http://iwamoto.asablo.jp/blog/2008/01/29/2586581
本間さんからいただいた。ありがとうございました。少しタイトル(特に副題)が茫漠としているのではとおもいました。
http://iwamoto.asablo.jp/blog/2008/01/29/2586581
新収 文物 総第620期 ― 2008/02/14 17:22
文物編輯委員会、『文物』総第620期、2008年1月。
一点、河北の唐墓の報告が載るが、・・とりあえず注目する点がない。「研究と探索」に以下の一篇あり。
鐘暁青、安陽霊泉寺北斉双石塔再探討
「大斉河清二年三月十七日」と銘がはいっているようである。
一点、河北の唐墓の報告が載るが、・・とりあえず注目する点がない。「研究と探索」に以下の一篇あり。
鐘暁青、安陽霊泉寺北斉双石塔再探討
「大斉河清二年三月十七日」と銘がはいっているようである。
拝受 新潟県中越地震被災地刈羽村民俗収蔵庫資料搬出作業の記録 ― 2008/02/15 21:36
新潟大学歴史資料救済ネットワークほか制作、新潟県中越地震被災地刈羽村民俗収蔵庫資料搬出作業の記録、新潟大学人文学部矢田研究室
映像。媒体はDVD。矢田先生からいただいた。編集は古賀豊先生によるとのこと。
映像。媒体はDVD。矢田先生からいただいた。編集は古賀豊先生によるとのこと。
拝受 子弾庫楚帛書における五行説と宗教的職能者 ― 2008/02/17 21:54
森和、祝融伝承の形成過程に関する一考察-子弾庫楚帛書からのアプローチ-、『史滴』27号、2005年。
森和、子弾庫楚帛書における五行説と宗教的職能者、『史観』第157冊、2007年。
森和、子弾庫楚帛書の天人相関論について、『中国出土資料研究』第11号、2007年。
森さんからいただいた。ありがとうございました。
近年、戦国期の楚に関する資料が多数発見され、注目をあびているが、子弾庫楚帛書ははるかその前の1941年に発見されている。ただ近年発見の資料とあわせ、ようやくわかるようになってきた部分が多い。森さんの研究はそうした点に着目して、その思想世界の研究をあらたな角度から深めたもの。
森和、子弾庫楚帛書における五行説と宗教的職能者、『史観』第157冊、2007年。
森和、子弾庫楚帛書の天人相関論について、『中国出土資料研究』第11号、2007年。
森さんからいただいた。ありがとうございました。
近年、戦国期の楚に関する資料が多数発見され、注目をあびているが、子弾庫楚帛書ははるかその前の1941年に発見されている。ただ近年発見の資料とあわせ、ようやくわかるようになってきた部分が多い。森さんの研究はそうした点に着目して、その思想世界の研究をあらたな角度から深めたもの。
拝受 写本時代知識社会史研究 ― 2008/02/18 02:34
余欣、写本時代知識社会史研究-以出土文献所見『漢書』之伝播與影響為例、『唐研究』第13巻、2007年。
余さんからいただいた。ありがとうございました。
内容的には敦煌文献の『漢書』を中心に写本と情報の伝播を考察したもの。
なお実際読んでみると、その手法は中国史研究としてオーソドキシーにもみえるが、実はその視角にしかけがあるようだ。
「知識社会史」については、ピーター・バーク(著)『知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか』(新曜社、2004年)で知ることができる。なおこの本は新潟大学の井山弘幸、城戸淳先生の翻訳で知られる。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4788509105.html
余さんの仕事はある視角と実証とをむすびつけようとしている。伝統的なやり方にしばられない中国史研究がこれからどう展開していくのか非常に楽しみにおもえた。
ところで、こういう図書や知識流通の研究は、アナール学派ではフランスの青本(livre bleu)研究が有名だし、日本では江戸時代の漢籍、黄表紙、往来ものの流通研究がぬきんでており、非常に参考になる。もちろん、場所や時代が違うものを同じには扱えないが、異なる社会の構造とそのありかたを意識することで、自分の研究対象はよくみえるようにおもう。
ただ最近、日本では新しい視点や仮説と実証とをうまく両立させた研究書をみることは減りつつある。いや、たぶん読書量が足りないせいだと思うが、一般的に独自の分析や解釈をさける傾向がある気がする。その逆に「欧米」の研究を紹介しているだけのようなものも伝統的に存在する。
しかし、どんな研究でも数年後に新発見があったりして、実証したはずの一部がひっくり返ることはある。
だからこそ、肝心なのは個の研究者として「どう見たか、どう読んだか」が緻密な論証とともに提起できていることだろう。
知識の社会史という観点で学問をとらえると、古代史でも中世史研究でも現代に活かせる豊富な題材をもっていることが再認識できる。しかし、日本では、かつて舶来の理論にのって大きな挫折を味わって以降、理論化や仮説は放棄され、手堅くみえる細分化へどんどんむかった。その結果、日本では『知識の社会史』みたいなモノの見方を提言できる歴史研究者は少なくなってしまった(もちろんまだまだその手の論者がたくさんいるのだが)。
自分自身が市場経済の社会にいながら、その中でなにも提言できない、おもしろさをつたえる「商品化」ができないなら、古代史や中世史の存在する場所が奪われていくのはやむをえないことである。実際、雑誌論文や報告書によって仲間内ではその将来的可能性の余地が担保されるが、その市場価値はかぎりなくゼロであり、社会的には支払い猶予のモラトリアム申請をだしているのにちかい。
研究はこうあるべきだという内輪話に内輪以上の価値はない。実際にそれがどう社会性を帯びるかまでが問題で、実はそのプロセスの方が大変な苦労をともなう。そしてこの文章もまたその内輪話そのものである。
こんな風にみていくと気づくように、知識の社会史というテーマは研究対象になりうると同時に、研究者自身をうつす鏡にもつながる可能性がある。このような巧みな両義性をもったテーマを設定できるところが人文学のおもしろさで、それは他の分野では不可能なのだが、テーマ設定のおもしろさ、現在性に価値を見いだせる研究は少ない。結果として社会的には実用の学にも劣る扱いをうけることになる。
あなたの研究が現代の我々に何かメッセージを発しているの?ときかれて、あなたは勉強をしていないから我々の地道な努力はわからない、我々は伝統的にこういう緻密な仕事をやってきたのだと答えたのでは会話を拒否していることになろう。努力している姿なんて価値はない。努力して売り物に結びつくかどうかである。そして当然、商品価値が少ない、商品が少ない分野が衰退していくのは当然の帰趨である。
余さんからいただいた。ありがとうございました。
内容的には敦煌文献の『漢書』を中心に写本と情報の伝播を考察したもの。
なお実際読んでみると、その手法は中国史研究としてオーソドキシーにもみえるが、実はその視角にしかけがあるようだ。
「知識社会史」については、ピーター・バーク(著)『知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか』(新曜社、2004年)で知ることができる。なおこの本は新潟大学の井山弘幸、城戸淳先生の翻訳で知られる。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4788509105.html
余さんの仕事はある視角と実証とをむすびつけようとしている。伝統的なやり方にしばられない中国史研究がこれからどう展開していくのか非常に楽しみにおもえた。
ところで、こういう図書や知識流通の研究は、アナール学派ではフランスの青本(livre bleu)研究が有名だし、日本では江戸時代の漢籍、黄表紙、往来ものの流通研究がぬきんでており、非常に参考になる。もちろん、場所や時代が違うものを同じには扱えないが、異なる社会の構造とそのありかたを意識することで、自分の研究対象はよくみえるようにおもう。
ただ最近、日本では新しい視点や仮説と実証とをうまく両立させた研究書をみることは減りつつある。いや、たぶん読書量が足りないせいだと思うが、一般的に独自の分析や解釈をさける傾向がある気がする。その逆に「欧米」の研究を紹介しているだけのようなものも伝統的に存在する。
しかし、どんな研究でも数年後に新発見があったりして、実証したはずの一部がひっくり返ることはある。
だからこそ、肝心なのは個の研究者として「どう見たか、どう読んだか」が緻密な論証とともに提起できていることだろう。
知識の社会史という観点で学問をとらえると、古代史でも中世史研究でも現代に活かせる豊富な題材をもっていることが再認識できる。しかし、日本では、かつて舶来の理論にのって大きな挫折を味わって以降、理論化や仮説は放棄され、手堅くみえる細分化へどんどんむかった。その結果、日本では『知識の社会史』みたいなモノの見方を提言できる歴史研究者は少なくなってしまった(もちろんまだまだその手の論者がたくさんいるのだが)。
自分自身が市場経済の社会にいながら、その中でなにも提言できない、おもしろさをつたえる「商品化」ができないなら、古代史や中世史の存在する場所が奪われていくのはやむをえないことである。実際、雑誌論文や報告書によって仲間内ではその将来的可能性の余地が担保されるが、その市場価値はかぎりなくゼロであり、社会的には支払い猶予のモラトリアム申請をだしているのにちかい。
研究はこうあるべきだという内輪話に内輪以上の価値はない。実際にそれがどう社会性を帯びるかまでが問題で、実はそのプロセスの方が大変な苦労をともなう。そしてこの文章もまたその内輪話そのものである。
こんな風にみていくと気づくように、知識の社会史というテーマは研究対象になりうると同時に、研究者自身をうつす鏡にもつながる可能性がある。このような巧みな両義性をもったテーマを設定できるところが人文学のおもしろさで、それは他の分野では不可能なのだが、テーマ設定のおもしろさ、現在性に価値を見いだせる研究は少ない。結果として社会的には実用の学にも劣る扱いをうけることになる。
あなたの研究が現代の我々に何かメッセージを発しているの?ときかれて、あなたは勉強をしていないから我々の地道な努力はわからない、我々は伝統的にこういう緻密な仕事をやってきたのだと答えたのでは会話を拒否していることになろう。努力している姿なんて価値はない。努力して売り物に結びつくかどうかである。そして当然、商品価値が少ない、商品が少ない分野が衰退していくのは当然の帰趨である。
新収 イスラーム農書の世界 他 ― 2008/02/20 19:23
清水宏祐(著)『イスラーム農書の世界』、山川出版社、2007年12月。
土井康弘(著)『本草学者 平賀源内』(講談社メチエ)、講談社、2008年2月。
土井康弘(著)『本草学者 平賀源内』(講談社メチエ)、講談社、2008年2月。
拝受 法史学研究会会報 第11号 ― 2008/02/21 01:54
法史学研究会編『法史学研究会会報』第11号、2006年。
岡野誠先生からいただいた。ありがとうございました。会報という名前だが立派な学術誌。内容については以前、一読済み。
岡野誠先生からいただいた。ありがとうございました。会報という名前だが立派な学術誌。内容については以前、一読済み。
新収 薩摩博物学史 ― 2008/02/22 01:32
上野益三(著)『薩摩博物学史』、島津出版、1982年。
近世薩摩の博物学、本草学に関する著名な本。
近世薩摩の博物学、本草学に関する著名な本。
新収 Ancient Khotan ― 2008/02/28 21:41
M.A.Stein "Ancient Khotan-detailed report of archaeological explorations in Chinese Turkestan" SDI Publications,Bangkok,2001.
いわずとしれた大著。入手したのはリプリントで1冊となっている。なかなか文字も写真も鮮明。ただし、持っている本の中でこれほど重い本はたぶん他にない。
「東洋文庫所蔵」図像史料マルチメディアデータベース でみれるわけだが。
http://dsr.nii.ac.jp/toyobunko/VIII-5-B2-7/
いわずとしれた大著。入手したのはリプリントで1冊となっている。なかなか文字も写真も鮮明。ただし、持っている本の中でこれほど重い本はたぶん他にない。
「東洋文庫所蔵」図像史料マルチメディアデータベース でみれるわけだが。
http://dsr.nii.ac.jp/toyobunko/VIII-5-B2-7/