再読 「荒ぶる神」と日中の祭祀儀礼2008/05/14 21:26

廣田律子、「荒ぶる神」と日中の祭祀儀礼、『東方』第322号、2007年12月。

 先日、ある先生から日本の東北地方の「祭文がたり」のCDをいただいた。サイモンと読むと教わったのだが、それで人名「ガー・・・」を連想するのでは私と同じ俗人か、オジサンである。

 そういう私がちょうど、ためこんだ『東方』を整理していると、偶然にも廣田先生の一文にあたった。このなかには中国や日本など東アジアの祭祀でもちいられる「祭文」が紹介されていた。とくに目が向かったのは岩田勝『神楽源流考』を参照しつつ、日本の中国地方や三河あたりの祭りでもちいられる祭文を紹介しているくだりであった。これらは日本で用いられているものであるにもかかわらず、盤古説話が主題となっており、土公神とも無関係ではないようである。そして文面をみるとそれはしばしば敦煌文書にでてくる呪文とそっくりなのだった。

 まあ、「急急如律令」のごとく、といえばそれまでではある。
 ただし、私がもらった「祭文がたり」の題名は「牛若丸云々」ときわめて日本的であるし、上記のものとは成立年もかなり違うのであろう。まずは聞いてみることにしたい。(追記:どうも主題自体はこのURLの神楽に似ているようにも思われる。http://www.shouzi.co.jp/gagaku.html

 ともかく少数民族のものをふくめ、祭りや儀式は、それが日常生活やある空間にいきづいていてこそ意味があるものであろう。昨今の事件や事象には心痛むばかりである。

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