新収 地中海世界のイスラム ― 2008/05/22 19:52
W.モンゴメリ.ワット(著)三木亘(訳)、『地中海世界のイスラムーヨーロッパとの出会い』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、2008年5月。
かつて使用した『世界史』の教科書にはピレンヌテーゼがのっていた。「マホメット無くしてシャルルマーニュ無し」というものである。そのおおもとの論文の翻訳は佐々木克巳(編訳)『古代から中世へ-ピレンヌ学説とその継承』で読める。
『地中海世界のイスラム』はそれとは逆にイスラム側からヨーロッパを見る視点で書かれているようだ。読みやすい翻訳。
「科学と哲学の分野でヨーロッパを知的に刺激したばかりではない、イスラムはヨーロッパを挑発して新しいおのれの像を形づくらせたのである。ヨーロッパはイスラムに反発しつつあったからこそサラセン人の影響を軽んじて、ギリシアとローマの遺産への依存を誇大視したのである」(P.166)
なんか十分にカテゴリ分類を準備してなかったのだが、あえて分類すれば「世界史」であろうか。
かつて使用した『世界史』の教科書にはピレンヌテーゼがのっていた。「マホメット無くしてシャルルマーニュ無し」というものである。そのおおもとの論文の翻訳は佐々木克巳(編訳)『古代から中世へ-ピレンヌ学説とその継承』で読める。
『地中海世界のイスラム』はそれとは逆にイスラム側からヨーロッパを見る視点で書かれているようだ。読みやすい翻訳。
「科学と哲学の分野でヨーロッパを知的に刺激したばかりではない、イスラムはヨーロッパを挑発して新しいおのれの像を形づくらせたのである。ヨーロッパはイスラムに反発しつつあったからこそサラセン人の影響を軽んじて、ギリシアとローマの遺産への依存を誇大視したのである」(P.166)
なんか十分にカテゴリ分類を準備してなかったのだが、あえて分類すれば「世界史」であろうか。
拝受 19世紀学研究 他 ― 2008/04/08 20:32
19世紀学学会・19世紀学研究所、『19世紀学研究』第1号、2008年3月。
新潟大学大学院比較宗教思想研究プロジェクト、『比較宗教思想研究』第8輯、2008年3月。
これも学内の教員に配布されたものであろう。傾向としては主に西洋史・哲学・思想・美術史系の論文が掲載されている。
まず前者。遅塚忠躬、村上陽一郎というビックネームによる19世紀論を巻頭に、Otto Langer、香田芳樹、Elmar Holenstein、臼井隆一郎、Tanihisa Otabeと国際色豊かな執筆者による特集記事がならぶ。つづいて、池田嘉郎、森田直子、曽田長人と19世紀学研究を考えさせる論文が配置されている。
後者。石見衣久子、藤島理恵(ドイツ語)、細田あや子、石田純子、横坂康彦(英語)、田巻敦子と論文が並ぶ。石見論文は神話、細田論文はキリスト教図像学の内容で、前号の論文と関連があるのであろう。
http://iwamoto.asablo.jp/blog/2007/04/10/1387635
新潟大学大学院比較宗教思想研究プロジェクト、『比較宗教思想研究』第8輯、2008年3月。
これも学内の教員に配布されたものであろう。傾向としては主に西洋史・哲学・思想・美術史系の論文が掲載されている。
まず前者。遅塚忠躬、村上陽一郎というビックネームによる19世紀論を巻頭に、Otto Langer、香田芳樹、Elmar Holenstein、臼井隆一郎、Tanihisa Otabeと国際色豊かな執筆者による特集記事がならぶ。つづいて、池田嘉郎、森田直子、曽田長人と19世紀学研究を考えさせる論文が配置されている。
後者。石見衣久子、藤島理恵(ドイツ語)、細田あや子、石田純子、横坂康彦(英語)、田巻敦子と論文が並ぶ。石見論文は神話、細田論文はキリスト教図像学の内容で、前号の論文と関連があるのであろう。
http://iwamoto.asablo.jp/blog/2007/04/10/1387635
新収 世界史をどう教えるか ― 2008/03/14 18:23
神奈川県高等学校教科研究会社会科部会・歴史分科会 (編) 『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』、山川出版社、2008年3月。
研究と教育をつなぐ内容。世界史の授業の際、どのようなことに疑問や関心がもたれているのかが伝わってくる。
そもそも「歴史を研究する」というのは究極どう書くか、どう説明するかという類のものだと思うので、研究に従事する者には各論文で「どう説明できる」かをアウトプットすることが求められているのだろう。
http://www.amazon.co.jp/dp/4634640325
研究と教育をつなぐ内容。世界史の授業の際、どのようなことに疑問や関心がもたれているのかが伝わってくる。
そもそも「歴史を研究する」というのは究極どう書くか、どう説明するかという類のものだと思うので、研究に従事する者には各論文で「どう説明できる」かをアウトプットすることが求められているのだろう。
http://www.amazon.co.jp/dp/4634640325
新収 世界史なんていらない 他 ― 2008/01/04 20:16
南塚信吾(著)『世界史なんていらない?』(岩波ブックレット)岩波書店、2007年。
唐代史研究会(編)『東アジア史における国家と地域』(唐代史研究会報告第8集)、刀水書房、1999年。
昨年(といっても数週間前)購入したがここにはアップしていなかった2冊。後者はすでに購入済みの気もしたが、どうしても見つからないので購入。
唐代史研究会(編)『東アジア史における国家と地域』(唐代史研究会報告第8集)、刀水書房、1999年。
昨年(といっても数週間前)購入したがここにはアップしていなかった2冊。後者はすでに購入済みの気もしたが、どうしても見つからないので購入。
拝受 ドイツにおける博士号取得の回顧と展望 ― 2007/06/19 17:45
森田直子、ドイツにおける博士号取得の回顧と展望、『クリオ』vol.21、2007.5。
森田先生からいただいた。ありがとうございました。
森田先生からいただいた。ありがとうございました。
新収 比較宗教思想研究 ― 2007/04/10 19:24
『比較宗教思想研究-死生観・霊魂感から見た比較研究』第7輯、新潟大学大学院現代社会文化研究科比較宗教思想研究プロジェクト、2007年3月。
ご自由にどうぞ、と書かれていたのでいただいてきた。
石見衣久子、ディオニューソスとギリシア演劇
筒井賢治、キリスト教グノーシスにおける「霊」と「肉」
細田あや子、洗礼の図像解釈-オットー朝挿絵を中心に
小林日出至郎、Study on the Significance of Homer and Plato in Modern Sport
横坂康彦、キリスト教賛美歌に見る「平和」の概念とその変遷
堀竜一、正宗白鳥「ダンテについて」論
出版者は名前上は勤務先と言うことになるが、実際は大学院の名の下に多くのプロジェクトがあつまっているというもので、直接的なつながりはない。
また私はこの方面は専家ではないので、論評すべきでもないが、今号はなかなか重みのある論考が掲載されている感触をうけた。
ただ、やはり私が素人だからだろうか、また発想とスタイルの問題に過ぎないのかもしれないが、その課題について先行研究ではどこまで論じられているのかはよくわからなかった。
ご自由にどうぞ、と書かれていたのでいただいてきた。
石見衣久子、ディオニューソスとギリシア演劇
筒井賢治、キリスト教グノーシスにおける「霊」と「肉」
細田あや子、洗礼の図像解釈-オットー朝挿絵を中心に
小林日出至郎、Study on the Significance of Homer and Plato in Modern Sport
横坂康彦、キリスト教賛美歌に見る「平和」の概念とその変遷
堀竜一、正宗白鳥「ダンテについて」論
出版者は名前上は勤務先と言うことになるが、実際は大学院の名の下に多くのプロジェクトがあつまっているというもので、直接的なつながりはない。
また私はこの方面は専家ではないので、論評すべきでもないが、今号はなかなか重みのある論考が掲載されている感触をうけた。
ただ、やはり私が素人だからだろうか、また発想とスタイルの問題に過ぎないのかもしれないが、その課題について先行研究ではどこまで論じられているのかはよくわからなかった。
拝受 近代ドイツの市民層と市民社会-最近の研究動向- ― 2007/03/08 17:55
森田直子「近代ドイツの市民層と市民社会-最近の研究動向-」『史学雑誌』110-1,2001年。
森田さんからいただいた。ありがとうございました。
ここ15~20年ほどのドイツにおける市民層研究および社会史的研究に関する動向を整理したもの。
※脱線するが、同号には佐川英治先生の論文が載っている偶然にきづいた。
森田さんからいただいた。ありがとうございました。
ここ15~20年ほどのドイツにおける市民層研究および社会史的研究に関する動向を整理したもの。
※脱線するが、同号には佐川英治先生の論文が載っている偶然にきづいた。
新収 (新版)歴史のための弁明 ― 2007/01/16 03:35
マルク・ブロック著、松村剛訳『歴史のための弁明』(岩波書店、2004年5月第3版)
かつて旧版の讃井訳を何度も読んだことがあり、「新版」をかうにはおよぶまいと思っていたが、生協で岩波15%引きセール中だったので購入。のっけから私の弁明であるが、まだ、あとがきしかよんでいない。
マルク・ブロックはいわずとしれたフランスの歴史家で、ドイツ軍占領下でレジスタンス活動に参加して銃殺されたため、本書はリュシアン・フェーブルの手によって出された。旧版・讃井訳はそれにもとづく。
ところが近年、奇跡的に原稿がでてきて、それを子息が整理したところ、出版されたものは、ずいぶんとリュシアン・フェーブルが手を入れていたことがわかった。誤りもあってブロックの原稿を忠実に反映していなかったので本書はそれを修正、整理したので(新版)と銘打つ。なお、ブロックもフェーブルもアナール学派の大御所。
まあいずれ読みなおすことはまちがいない。
かつて旧版の讃井訳を何度も読んだことがあり、「新版」をかうにはおよぶまいと思っていたが、生協で岩波15%引きセール中だったので購入。のっけから私の弁明であるが、まだ、あとがきしかよんでいない。
マルク・ブロックはいわずとしれたフランスの歴史家で、ドイツ軍占領下でレジスタンス活動に参加して銃殺されたため、本書はリュシアン・フェーブルの手によって出された。旧版・讃井訳はそれにもとづく。
ところが近年、奇跡的に原稿がでてきて、それを子息が整理したところ、出版されたものは、ずいぶんとリュシアン・フェーブルが手を入れていたことがわかった。誤りもあってブロックの原稿を忠実に反映していなかったので本書はそれを修正、整理したので(新版)と銘打つ。なお、ブロックもフェーブルもアナール学派の大御所。
まあいずれ読みなおすことはまちがいない。
新収 フーコー・ガイドブック ― 2007/01/15 03:42
ミシェル・フーコー 小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編
『フーコー・ガイドブック』(ちくま学芸文庫、2006年11月)
「フーコーの著作を読むための『入門書』」。
まだ途中までしかよんでないが、この本はよみやすい。
学生時代、フーコーの著作の訳書を何冊か読んだのだが、迷路に入ったようにおもうことがあり、訳がおかしいのでは・・・と訳者に責任転嫁してみること、しばしばだった。その調子で、まあいいやと読み飛ばしていくうちに、訳書を放り出したくなったことがある。
しかし、こういうすばらしいガイドブックがあると再読してみようという気にもなる。文庫本だし、なにかエッセンスが抽出されている気がして、なるほどそうだったのかと言う感じで読めそう。
実際のところ、年度末にむかって、なかなかそんな時間はない。
『フーコー・ガイドブック』(ちくま学芸文庫、2006年11月)
「フーコーの著作を読むための『入門書』」。
まだ途中までしかよんでないが、この本はよみやすい。
学生時代、フーコーの著作の訳書を何冊か読んだのだが、迷路に入ったようにおもうことがあり、訳がおかしいのでは・・・と訳者に責任転嫁してみること、しばしばだった。その調子で、まあいいやと読み飛ばしていくうちに、訳書を放り出したくなったことがある。
しかし、こういうすばらしいガイドブックがあると再読してみようという気にもなる。文庫本だし、なにかエッセンスが抽出されている気がして、なるほどそうだったのかと言う感じで読めそう。
実際のところ、年度末にむかって、なかなかそんな時間はない。
新収 北の街にて ― 2006/12/31 13:00
阿部謹也『北の街にて-ある歴史家の原点』洋泉社、2006年8月
阿部謹也氏がどのように研究生活をおくってきたか、また日本人としてなにを感じてそれを研究と関わらせてきたかを凝縮して書いてある一冊である。
私は高校時代に阿部氏の文章を読んだのがきっかけで歴史学が専攻できる大学、学部だけを受験した。阿部氏はドイツ史の研究者だが、阿部氏の力点はテーマと自分との関わりを考えることだと理解していたので、同じ分野を専攻する必然性はかんじなかった。だから西洋史でも東洋史でもよいと考えていたが、日本史だと自分の出身地にこだわることになるような気もして、それもおもしろくないかなとおもった。それで外国史と自分との関わりをしばらく考えていくことになった。そしていろいろな思いや偶然が重なり東洋史を専攻することになった。
今年、惜しくも阿部氏は亡くなってしまった。阿部氏は私の勤務先にもきたことがあるそうだが、残念ながらそれは私が赴任する前の話で、お会いすることもなかった。
論文の作法上、先行研究がとか、○○理論ではとか、○○学派によるとということも必要なことであるが、つまるところ、そのテーマを選ぶのは阿部氏がいうとおりだと思っている。この点だけは曲げずに、またこれからはそれが人につたわるように書いていきたいとこの本を読んで心を新たにした。
阿部謹也氏がどのように研究生活をおくってきたか、また日本人としてなにを感じてそれを研究と関わらせてきたかを凝縮して書いてある一冊である。
私は高校時代に阿部氏の文章を読んだのがきっかけで歴史学が専攻できる大学、学部だけを受験した。阿部氏はドイツ史の研究者だが、阿部氏の力点はテーマと自分との関わりを考えることだと理解していたので、同じ分野を専攻する必然性はかんじなかった。だから西洋史でも東洋史でもよいと考えていたが、日本史だと自分の出身地にこだわることになるような気もして、それもおもしろくないかなとおもった。それで外国史と自分との関わりをしばらく考えていくことになった。そしていろいろな思いや偶然が重なり東洋史を専攻することになった。
今年、惜しくも阿部氏は亡くなってしまった。阿部氏は私の勤務先にもきたことがあるそうだが、残念ながらそれは私が赴任する前の話で、お会いすることもなかった。
論文の作法上、先行研究がとか、○○理論ではとか、○○学派によるとということも必要なことであるが、つまるところ、そのテーマを選ぶのは阿部氏がいうとおりだと思っている。この点だけは曲げずに、またこれからはそれが人につたわるように書いていきたいとこの本を読んで心を新たにした。